時代を懸命に生きた鈴木雅への冒涜だ
「モデルではなくモチーフ」といえば、それまでかもしれない。フィクションである以上、自由に脚色してよいという理屈は成り立つ。だが、捨て子の孤児、身分詐称の婚活、鹿鳴館のメイド、ここまで正反対に描けば、もはや「モチーフ」とも言いがたい。少なくとも、この時代を懸命に生きた鈴木雅という実在の人物に対する冒涜になっている。
さて、ここまで読んできた方はお気づきだろう。このドラマが抱える問題の本質は、あの「特攻ポルノ」と同じ文脈である。
映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2023年)を覚えているだろうか。現代の女子高生が太平洋戦争末期にタイムスリップし、特攻隊員と恋に落ちるあの作品だ。
そもそも「ポルノ」とは何か。性的なコンテンツのことではない。「消費者が気持ちよくなるために、都合の悪い複雑さを全部削ぎ落とした状態」のことだ。
史実の特攻隊員たちは「死にたくない」と思っていた。「なぜ俺が死なねばならないのか」という怒りを抱えていた。愛する人に会いたかった。国家に騙されたと感じていた者もいた。遺書にはそういった言葉が残されている。それが人間というものだ。
「社会への怒り」と「信仰」が希釈されている
「あの花」はその複雑さを全部消去する。国家による強制死を、本人が純粋に肯定している記号に変換する。そして現代の女の子との恋愛というエモさで視聴者を泣かせることで、「その構造はおかしくないか」という問い自体を封じる。
気持ちよく泣けて、何も考えなくていい。
「風、薫る」がやっていることも、構造としてまったく同じである。
本来、大関和も鈴木雅も、どういう人間だったか。ままならない自分の人生と、世間に対する鬱屈を抱えた女性たちが、アメリカから来た改革派教会の「社会を変えれば救われる」という最新の布教……今でいえばSDGsとかフェミニズムとかに「これだあああ‼」と目覚め、怒りのエネルギーを社会改良運動に変換して成功した人たちである。その駆動力は、信仰の強烈さと、士族としての怨念と、社会への怒りだ。生易しいものではない。
原案となった田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社、2023年)は、この信仰の強烈さの部分を重視せず、女性の社会進出と友情のフィクションとして描いた。それ自体はひとつの解釈として成立する余地もある。
だが、そこからさらにNHKのドラマがエモさ重視で改変を重ねた結果、何が起きたか。士族の令嬢は捨て子の孤児に、信仰と怒りの女性は婚活女子に、社会改良運動は炊き出しへと改変された。

