「期待し、落胆し、腹を立て」が日常の姿

「親は子どもを無条件に愛するべきだ」について

親の愛は無条件だしそうあるべきだ、と多くの人が信じているでしょう。

「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し」という言葉も、その考えの反映だろうと思います。

しかし実際には、親の愛情は「無条件」とはかけ離れています。

どの親も、子どもに対して「ああしてほしい、こうしてほしい」と要求がましく思うし、そうしてくれないときには腹を立てたり落胆したりします。

親の心には、そのままの子どもを大切に思う無条件の愛も存在しますが、日常において「無条件」なんてとんでもないのです。

では、自分の子どもを虐待する親についてはどうでしょうか。

そのことに関して私はこんな経験をしました。

それはある春の日のことでした。

近所の小川を母ガモがかわいい子ガモたちを率いて、穏やかな水面を仲良くスイスイ泳いでいました。とてものどかな光景で、人々が川辺からその光景を眺めています。

私も川辺に立ってそれを見ていました。

隣に年配のご夫婦がいました。旦那さんが奥さんに、「子どもを虐待したり育児放棄をしたりする親にこれを見せてやりたい! このカモの親子から学ばないとだめだ」と、言い、奥さんも「そうよねぇ」と答え、二人は去って行きました。

このように、世間の多くの人が、子どもを虐待したり育児放棄をしたりする親を責めます。子どものつらさを思うとき、責めたくなるのはもっともなことでしょう。

しかし、おそらくほとんどの親が、自分の子どもに対して虐待だと見なされても仕方のない行為を一度ならずしたことがあると思います。

カッとなって思わず叩いたり、子どもの持っているおもちゃなどを乱暴に取り上げて、子どもが痛みとショックで泣き出したり、子どもを侮辱するような言葉を投げつけたりしています。

人には言えなくても、そのような行為をほとんどの親は何度もしたことがあるでしょう。子どもをいつも無条件で愛することのできる親は、いないのです。

こうして「自己否定」はエンドレスになる

ここまで、道徳的・倫理的な「べき」として三つの例を挙げ、それらが人間の本質に反しているということを見てきました。

ここで検討した三つの例に限らず、人間がつくりだした道徳的・倫理的な「べき」は人間の本質に反しています。

ですから人間はそれに背き続けます。

「べき」に合わないことをしたから、ということで自分と他人を責めると、自己否定も他者否定もエンドレスになります。

ほとんどの人がそうして生きています。

ここまでお伝えしたことへの反論として、「倫理や道徳で人を裁かなければ人は自分勝手になり、もっと悪いことをするようになる」というものがあるでしょう。

多くの人々が「間違った行動は倫理や道徳で責めてコントロールしなければならない」と信じているのです。

例えば学校は、その信念に基づいて運営されている組織として最たるものの一つでしょう。

次に、その信念について詳しく見てみましょう。