新幹線で「豚まん食べていいのか」問題
戦後の社会は、みんなだいたい同じ価値観を共有している社会(「大きな物語の社会」)から、みんな違ってみんないいという社会(「ポストモダン社会」)へと移行していきます。多くの人にとっても、基本的にはこの移行は歓迎だったと思うのです。ただ、誤算が2つありました。一つめは「みんな違ってみんないい」への過度な期待。二つめは「みんな違いすぎる」状態への予想外の増速です。
一つめの「みんな違ってみんないい」状態を多くの人はユートピア的に捉えました。「みんな違ってみんないい」ので、自分の居場所が確保されていそうに思えます。しかしそれは、自分にとって嫌な奴や嫌な考えにも居場所があるということです。
新幹線には優雅に乗りたい、乗車時間はイコール読書時間だ、などと考える人にとって、隣席に強烈な旨味を放つ豚まん喫食者が座ったら移動時間は地獄と化すかもしれません。でも、「ふざけるな、遠慮しろ」とは言えないでしょう。「みんな違ってみんないい」ので。「みんなが違うこと」を許容するなら、気の合う奴よりは嫌な奴の数が多くなるのはことの道理です。
「蕎麦をすする音」が論争になる理由
そうは言っても多様性への齟齬や違和感はある程度折り込み済みでした。今までと違う社会の構造を築き上げていって、無傷でいられることはありません。しかし、誤算の二つめ、多様な社会の正義は予想以上に多様でした。
たとえば「蕎麦をすする音を聞かされることで傷ついている人がおり、これはヌードルハラスメントである。それを放置することは不正義である。そんな不正義を許すわけにはいかない」と主張することは、ただのわがままではありません。自分が不快なことには声を上げていいし、唯一無二の人生を謳歌するために自分の意見をしっかり持ちなさいと教育されたし、不正を見過ごすのは倫理的に許されないはずです。
したがって、蕎麦をすする人を撲滅するのは絶対的な正義になるはずです。視点を入れ替えると、蕎麦をすする側にも「そういう文化を守りたい」など個別の正義がいくつもあるので、なかなか撤退しにくい。

