1255(建長7)年、親鸞が83歳のときに朝円によって描かれた「安城御影」。(西本願寺所蔵「安城御影」=写真)

それだけでもたいへんな出来事なのに、法然や親鸞は庶民に向かって、「君たちは地獄へなんか行かなくてもいいのだ。大丈夫。南無阿弥陀仏と念仏をひたすら唱えていれば成仏できる。怯えて生きることはないんだよ」と言いだしたものだから、大変なことになった。なぜなら、どんな悪事を重ねても成仏できるということになりかねませんからね。実際、そのような「造悪説」を唱える一派が現れた。当時は一大スキャンダルだったはずです。

あの時代、人々の心を捉えていたのは「自分たちは地獄へ行くのではないか」という不安でした。地獄の絵図がビジュアルな絵巻物として人々の心に焼きつき、いまと違って地獄は実在するものとして堅く信じられていたのです。でも地獄へ行かずに済む方法が2つだけありました。

善行を積むことと、戒律を守ることです。善行というのは多額の寄付をしたり、寺を建てたり、法会を催したりすること。しかし、それは一握りの権力者でないとできない。戒律を守るというのは、修行です。たとえば、殺生、飲酒、嘘をつくといったことをしない。ですが、そんなことはとても庶民にはできません。

なぜなら当時は凶作のために、農民が離農して流民として都へ流れ込んでいるような状況だったからです。都は行き倒れとホームレスの人たちで渦巻いていた。そんな状況で、生きるために命ある獣や魚を殺して食べてはいけないと言われてもできるわけがない。稲だって生きているわけでしょう。人間は他の命を奪うことでしか生きられないわけですから、命がほしければ殺して食べますよ。その食べ物でも人と奪いあったりしている。

そんな人間は死後どこへ行くかというと、地獄へ行くのだと徹底的に教え込まれていたわけです。地獄のような時代に生きて、死んでもまた地獄行きという世の中で、ほとんどの人は絶望的な悲しみ、恐れを抱きながら生きていたわけなんですね。