強敵だった「加賀一向一揆」

「暗君」どころか、義景の代に朝倉氏の統治機構は完成の域に達していたのである。つまり、一乗谷を本拠地として、交易ルートも確立させて国を富ませている最中であり、わざわざ将軍を擁立して上洛をする必要がどこにもなかったわけである。

一乗谷朝倉氏遺跡の足利義昭御所跡(福井県福井市東新町)
一乗谷朝倉氏遺跡の足利義昭御所跡(福井県福井市東新町)(写真=立花左近/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

これに加えて朝倉氏には代々「上洛? そんなことやってる場合か‼」というのっぴきならない事情もあった。豊かな国であれば、当然それを狙うライバルもいる。そして、朝倉氏には、信長なんか比べものにならない強敵がいた。北の加賀を支配する一向一揆である。

加賀一向一揆との対立は、義景の代に始まったことではない。初代孝景の時代から続く、朝倉氏にとって文字通り百年来の宿敵であった。

そもそも加賀国とはどういう国か。文明6年(1474)、一向一揆が守護富樫氏を滅ぼして以来、約100年にわたって「百姓の持ちたる国」として一向一揆が支配する、戦国時代でも類を見ない異形の国家である。守護もいない、大名もいない。本願寺を頂点とした宗教共同体が、武装した農民・町人を束ねて一国を丸ごと支配しているのだ。

この怪物が、越前の真北に居座っていた。

繁栄期間のほぼすべてで、一向一揆と対立

つまり、義景にとって信長なぞは「最近出てきた新興勢力」にすぎない。

朝倉氏が本当に恐れ、本当に憎み、そして本当に手を焼き続けたのは、この加賀一向一揆だった。

朝倉氏は、その繁栄の期間のほとんどすべてで一向一揆と対立している。永正3年(1506)、一向一揆はついに越前に大挙侵攻した。朝倉軍は九頭竜川を挟んで迎え撃った。川を挟んだ一進一退の攻防、これは単なる国境紛争ではない。越前という国そのものの存亡をかけた戦いだった(辻川達雄『本願寺と一向一揆』誠文堂新光社、1986年)。

この戦いはその後も形を変えながら延々と続く。義景の代になっても状況は変わらない。加賀・越中・越前の三方面で戦線を維持しながら、朝倉氏は一向一揆の圧力を受け続けた。名将と名高い朝倉宗滴(教景)が生涯をかけて加賀への反攻を試みたが、それでも根本的な解決には至らなかった。

そこへ、永禄9年(1566)秋、ひょこひょこと一人の男が越前にやってきた。足利義昭――室町幕府最後の将軍となる男である(当時は義秋)。兄の将軍義輝を三好氏に暗殺され、あちこちを流浪した末に、義景を頼って越前に転がり込んできたのだ。最初は敦賀に置かれ、翌年の冬にようやく一乗谷への移住を許された。義景の「こっちに来るな」という本音が透けて見えるような経緯である。

義昭の要求はシンプルだった。「上洛させてくれ。将軍にしてくれ」である。義景としては、悪い話ではない。足利将軍を擁立して上洛できれば、天下に号令する大義名分が立つ。義景も当初は乗り気だった。そして義昭が一乗谷に滞在している間に、加賀一向一揆との間でなんとか和睦がまとまった。