「愚か者」のイメージは遺跡のせい

にもかかわらず、なぜにここまで朝倉氏の評価は低いのか。

その理由は明確である。上洛もせず、越前に引きこもっていたためである。しかし、なぜ朝倉氏は上洛しなかったのか。そこには、単なる臆病や怠慢では片付けられない理由がある。それは、そもそも上洛する理由がなかったからである。

だいたい朝倉氏が「引きこもり大名」すなわち、愚か者みたいなイメージを持たれているのは、だいたい一乗谷遺跡のせいである。

この遺跡、とにかく訪問するのが一苦労。鉄道なら、JR福井駅から越美北線で15分、一乗谷駅で下車し、バスで10分ほど……まあまあ近い! ただし福井駅からの電車は一日8本、それも福井駅発午前9時40分の次は13時6分。京福バスなら福井駅から25分だが、一日7便……。

いや、待ってほしい。一乗谷が「辺鄙」というイメージ自体、完全な誤解である。そもそも一乗谷が朝倉氏の本拠地になったのは、戦略的な必然があった。足羽川支流の一乗谷川に沿って南北約3キロにわたって平地が連なり、川沿いの交通は至便。しかも三方を山に囲まれた谷地形は、少ない兵力で守りやすい天然の要塞でもある。

“辺鄙”イメージを抱かれる「一乗谷」の現在
「一乗谷」復原町並の遠景(写真=Yasunorihayashi/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

つまり、朝倉氏は、山の中に引きこもったのではなく、使いやすくて守りやすい場所を賢く選んだのだ。

「辺鄙」は後付けの偏見だ

むしろ「辺鄙」というイメージは、朝倉氏滅亡後に生まれた後付けの偏見にすぎない。

信長に焼き討ちされた一乗谷は完全に放棄され、柴田勝家が新たな本拠を北ノ庄(現・福井市中心部)に置いたことで、一乗谷は文字通り田畑の下に埋もれた。その廃虚ぶりが、いつしか「最初から僻地だった」みたいな、印象にすり替わっただけである。

いってみれば、焼け落ちたのが一乗谷の「せい」にされた格好だ。栄えていた頃の姿は灰燼に帰し、残ったのは谷の静寂だけ。そりゃあ「引きこもり大名の本拠地」に見える。

だが発掘調査が示す事実は真逆だ。整然と区画された武家屋敷と町屋、複数の庭園、東南アジア産の陶磁器やヴェネツィアングラスまでもが出土しているのである。

ヴェネツィアングラスである。現在のイタリア、ヴェネツィアで作られたガラス容器が、越前の山あいの谷から出土している。大航海時代のヨーロッパ製品が、どういう経路をたどったかはわからない。だが確かに、この「辺鄙な谷」に届いていた。