越前と琉球をつなごうとしていた

しかもそれは偶然の産物ではなかった。永禄10年(1567年)、朝倉義景は薩摩の島津義久に書状を送り、琉球を経由した南海貿易への参入を打診している。

東京大学史料編纂所が所蔵する島津家文書(架番号S島津家文書二-二五-四)がそれで、同所第36回史料展覧会図録にはその釈文が収録されている(東京大学史料編纂所編『東アジアと日本・世界と日本』〔第36回史料展覧会図録〕、2013年)。

今度琉球渡海勘合之儀、本望、御同心之旨、令申候処、仍太刀一腰・馬一疋、送給候、悦入候、猶永興寺可有御演説候、渡船之刻候、必期、御入魂之故候、種々御懇切之由、殊使者在国中、恐々謹言

七月廿三日 左衛門督義景(花押)
謹上 島津修理大夫殿

琉球への渡海勘合(貿易許可証)について、義景が島津側の「御同心」すなわち仲介への同意に謝意を述べ、太刀と馬を贈った返礼状である。これは義景が、日本海航路の北端に位置する越前と、東シナ海交易の結節点である琉球をつなごうとしていたことを示すものだ。

そもそも越前は、奈良時代から「大国」に分類された国である。古代の律令制度が国力に応じて国を大・上・中・下の四等級に分けた際、越前は大国の筆頭格に位置づけられていた。その豊かさの源泉は、越前平野の高い農業生産力と、敦賀を軸とした交通の要衝という二本柱にある。

5代義景にかけて「むしろ成長・発展」

敦賀は日本海側と京都を結ぶ物流の結節点だった。朝倉氏はここに舟座(川舟座・河野屋座)を置き、保護する代わりに公事銭を徴収するという形で交易の利権を直接握った。国が安定するにつれ、敦賀や一乗谷周辺には商業・手工業が発展し、越前和紙や絹織物といった特産品の生産と流通も盛んになった。

こうして5代にわたって積み上げられた富が、義景の広域外交を支えた。南は薩摩の島津氏を通じた琉球貿易への参入に加え、さらに北は安東氏との交易も目指していたとされる。

ところで義景といえば、「上洛しなかった引きこもり大名」「信長に滅ぼされた凡将」というイメージが定着している。武田信玄に痛烈に批判されたこともその一因だ。しかし最近の研究は、このイメージを正面から覆しつつある。

朝倉義景画像(複製)
朝倉義景画像(複製)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

横田拓也「朝倉氏による越前国支配構造の確立と変容」(『都市文化研究』第27号、大阪公立大学、2025年3月)では、朝倉氏五代の発給文書を網羅的に分析し「朝倉氏の支配は5代義景にかけてむしろ成長・発展していた」として、こう結論づけている。

5代義景は、越前国内の実質的・普遍的な支配を奉行人に委ねるようになり、文書システムが整えられ、当主を中心とした朝倉氏の支配は最盛期を迎えた。