世界で比類なき歴史を持つ日本の古典

日本の文学は文字のテキストだけでも、『古事記』あるいは『万葉集』から数えれば1300年もの歴史があるというのに、こんな貧弱な姿では、我々の祖先の文学をちゃんと読解することなどおぼつかない限りです。

古典を読んだことのない若者たちに、どうやって日本人としての誇りを持たせるのでしょうか。

イギリスでシェイクスピアの戯曲が書かれて500年くらい。それに対して、日本という国が持っている、文学や書物の長く豊潤な歴史ということを考えると、712年にできた『古事記』から数えれば、現在まで1314年になるし、759年に作られた『万葉集』から数えても1231年になります。

それから一度も王朝が亡んだり交代したりすることなく、現在まで連綿と無数の古典文学作品を作りつづけ、書物として伝えつづけてきた国は、世界広しといえども、わが日本だけで、世界中ほかにはどこにもそんな国はないのです。

中国は刊本でないと書物として認められない、すると現存するものは一番古くて10世紀くらいになる。それも中国の書物は哲学や思想、あるいは歴史や詩文などが主体だから、長い書物と文学の歴史を持っていることにおいては、日本は世界で随一にして唯一の国です。

タブレット1枚授業で失われるもの

教科書をデジタルにすると、確かにタブレット1つ持っていれば、それで済むかもしれない。けれど、それだけを持って登校する生徒たちの姿を想像すると、便利ではあっても、学校生活の味わいがない、という気がします。

きょうは、国語と理科、それに算数と社会、とかいうように、時間割をにらみながら、毎日ランドセルに教科書を選んで入れ、それを肩にかついで登校する、そうしたことの中に「学校に通う」ことの喜びもあり、日々の勉強の現実性もあるというものです。

それをタブレット1枚だけ持って行くのは、もう何もかもスマホでやるのと一緒で、便利ではあるが味気ない。

教室でデジタルタブレットを使用する学校の子供たち
写真=iStock.com/recep-bg
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オブジェクトとしての教科書がないのは、それとともに暮し、それをつかって学んだという「実感」が圧倒的に希薄になってしまう、そういうものです。