「濡れ手で粟」の大もうけは誰か

かくして、日本で電子本を書いても、儲かるのはコンピュータ情報会社ばかりという、まさに植民地的な状況に置かれているため、著者にも出版社にも何のメリットもないのです。

したがって、せっかく電子本で出版にかかるイニシャルコストが大幅にカットできたとしても、その利益は、出版社にも著者にも還元されない仕組みですから、もちろん本は安くならないというわけです。

ただし、コンピュータ情報会社だけは、ただなにもせずに「濡れ手で粟」の大もうけ、という次第ですから、少なくとも日本では、電子本なんか普及するわけがない、これは理の当然です。

かくして、独立国家であるはずの日本が、アップルなどが何もかも取っていくという植民地的なことを黙認させられているのであれば、この国では電子出版なんかしていただかなくてけっこうだ、と私は思っています。

だから、日本の作家は、アメリカなどとは相違して、電子本でオリジナルを出す作家はほとんどいません。

その代わり、スマホなどでチャラチャラッと10分で読める、ショートショートみたいなものを素人が自分でアップすればいい。それをSNSなぞで宣伝すると、たまさかにヒットしたりする、でも、ヒットしたからとてじつは儲かってないと思います。

だから、結局、何にもならないことのために膨大な電子装置を動かしているのは、まことに理解に苦しむところです。

デジタル教科書は愚策の最たるモノ

そして、今、まったくナンセンスだと私が痛切に感じているのが、デジタル教科書です。

これはなんとしても阻止しなければなりません。私は小学校のころから、使った教科書を今でも全て保存してあります。何度も引っ越しをしたけれど、捨てずに持ってきた。それを見ると、自分の生きてきた歴史がそこにあるのです。

作家の林望さん
撮影=東川哲也(朝日新聞出版写真部映像部)
作家の林望さん

そうしたことは、じつはのっぴきならず大事なことです。

何を学んできたのかということは、とりもなおさず「自分が何者であるか」というアイデンティティの問題でもあるからです。それを思えば、電子教科書なぞは、人間を愚昧ぐまい化する政策の最たるものと言えます。

年々歳々、学校の授業では古典文学なんか読まなくていいというようになってきて、漢文などもほとんど教えないという学校も少なくないらしいのです。

私たちのころは、漢文・古文・現代文の3つを学んだのであったけれど、今は「国語総合」とかいって、現代文も古文も一緒くたにして教え、古典文学を学ぶことが質量ともに貧しくなっており、概していえば、古文や漢文はごくおざなり……まあやってもやらなくてもいい、というようなことになっているらしい。

なんという情けないことでしょうか。