妻・節子との間に4児が生まれた

どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と同伴した。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。(その時末の女の児が生れたばかりで、母の手を離れることが出来なかったから。)そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。『私少シ淋シイ。今アナタノ顔見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス』という焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。

神戸時代の小泉八雲と妻セツ、長男の一雄
写真提供=小泉家
神戸時代の小泉八雲と妻セツ、長男の一雄

まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、山陰道の辺鄙へんぴな島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山蔭やまかげに住んでるような、暗く荒寥こうりょうとした島嶼とうしょであった。人跡ひとあと絶えた山道には、人力車の通う術もなかったので、二人の若い男女は、たがいに助け合いながら、蔦葛つたかずらう細道を、幾時間となくさまよい歩いた。そして気味わるく物凄い顔をした、雲助(編集部註:宿場の人夫など)のような男たちに脅やかされたり、黒塚の一軒家のような家に泊って、白髪の恐ろしい老婆に睨まれたりした。

夫人はその時のことを追想して、草双紙で読んだ昔物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い稚気ちきのぬけなかった夫人は、恐らく恐怖にふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。

東京でも静かな場所を好んだ

ヘルンは常に散歩を好み、学校の帰途などには、まだ知らない町の隅々を徘徊したが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。『今日私、面白い所見つけました。あなた一所に行きます』と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい静閑の所であり、寺院の墓地や、やしきの空庭や、小高い見晴らしの丘などであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も退屈を感じて『まンないの』というような場所であった。

しかし琴、生花、茶道によって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの風雅を知ってた彼の妻は、良人と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇夜の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の稲田であった。何の見る物もなく風情もないので、夫人が怪しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、『お聴きなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう』と言った。あたり一面、稲田の中でかえるが雨のように鳴いていたのである。