稲葉山城を失っても、信長に抗い続けた

ベテランの上申を採用しなかっただけで職場放棄。しぶしぶ従うにしても「やっぱり若造には無理」と足元をみている。周囲にいるのは、こんな家臣ばかり。よくもまあ、こんな組織を6年も維持できたものだ。その時点で龍興は天才だ。

そして、その真価が光るのは稲葉山城を失ってからだ。面倒くさい家臣を気にしなくてよくなった龍興は、のびのびと信長に抗い続けるのである。

本当に凡将ならば、ここは信長に「すみませんでした」と頭を下げて、家臣の一団に加えてもらう手もあっただろう。実際、西美濃三人衆をはじめ、かつての龍興の家臣たちはそうした。信長政権下で重用され、それなりの地位を得ている。

しかし、龍興はそうしなかった。

曲がりなりにも三代目の後継ぎである。内紛で会社が崩れたとはいえ、乗っ取りにきた新興スタートアップに与するのは、理屈ではよくても感情が追いつかない。なによりも「筋が通らない」。大義だけが問題ではない。そもそも、負けを認めたら、自分が何者かわからなくなる。これは古今東西変わらない不文律。降伏するのが恥なのではない。だからフサインはカルバラーでウマイヤ朝に屈しなかったし、コンスタンティノス11世はオスマン帝国に降らない。

これと同じ構造で、龍興は「そりゃあ、筋が通らないだろ」と言い切るしかない。降伏すれば生き延びるための手段が、生き延びる理由を消してしまうのだ。ゆえに信長と戦い続けるしか選択肢はない。トランプ大統領みたいに「ディール」で解決する選択肢などないのだ。

「負けた三代目」を武器にする巧妙さ

稲葉山城を追われた後、龍興は連携先を次々と変えながら美濃奪還を諦めなかった。三好三人衆、本願寺、そして朝倉へ……いわば資本提携を繰り返しながら再起を図り続けたのだ。

そして1573年、刀根坂の戦いで朝倉軍とともに織田軍の猛追を受け、26歳で戦死したのである。

稲葉山城を失ってから、実に6年。その間、一度も「負けました」と言わなかった。

これは優秀じゃないとできない芸当だ。なにせ、領国も城も失い、文字通り何もない状態で三好や本願寺に押しかけ、「織田とは戦うんですよね? ぜひ参加させてください」と売り込み続けたのである。

しかも龍興は、単なる「居場所を失った流れ者」ではなかった。美濃の旧主という肩書は、信長包囲網を組む勢力にとって格好の大義名分だった。「信長に不当に奪われた正統な領主」を味方に加えることで、対信長戦の正当性が増す。龍興は自分が「負けた三代目」であるという事実を、逆に外交カードとして使いこなしていたのだ。

敗北すら武器にした男、それが斎藤龍興の実像である。

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