“実力なき若い殿様”に頭を下げる理由がない
1561年5月11日に義龍が死去した報を得た信長は、直ちに木曽川を越えて西美濃に侵攻。森部(岐阜県安八町森部薬師堂の長良川畔)で斎藤軍と衝突し、斎藤家の六家老のうち長井甲斐守・日比野下野守を討ち取り、稲葉山城近くまで迫って民家などに放火した後に引き上げている。信長側も同族の織田越中守が戦死したともあるし、信長も美濃攻略には時期尚早と判断したようだ。家老が二人も戦死するとなれば大損害だが、それでもなんとか最初の危機は脱出できたのである(松田亮『信長の美濃攻略史研究』新美濃史学会、1976年)。
ただ、いかに龍興に能力があろうとも、家中を支配するのは困難だった。
というのも、初代・道三に従うには理由がある。美濃統一を成し遂げ実力を示して諸将を畏怖させたからだ。その道三を敗死させた義龍も同様だ。ようは勝てる実力と、勝てるための軍を組織できるだけの能力を知らしめている。そういうものが、龍興にはまったくない。攻め込んできた信長に対しては引き上げさせただけで、別に真正面からぶつかって勝利を成し遂げたわけではない。
これでは、美濃の諸将にしてみれば、単に後を継いだだけでなんら実力も披露していない若い殿様に頭を下げる理由が無いも同然だ。その後、1563年にも龍興は再度侵攻してきた信長を撃退しているが、この時も活躍したのは半兵衛とされる。
つまり諸将の目には「殿が勝ったのではなく、半兵衛が勝った」と映ったわけである。まだ若い、かつ三代目の龍興は多少ズルくても手柄を自分のものにして「俺が勝った」「俺の采配で勝った」と知らしめることができなかったのだ。
冷酷に実利を取ることができなかったか
同じ「三代目」でも、権威確立に成功した例がある。徳川三代将軍・家光だ。家光は「余は生まれながらの将軍である」と宣言し、大名を江戸に集めて「我に従う者は残れ、従わぬ者は国に帰って戦の準備をせよ」と言い放った。つまり三代目であることを逆手に取って、自分が新しい秩序の起点だと再定義したわけだ。
龍興にはこれができなかった。
14歳という年齢的限界なのか、道三・義龍と続いた下剋上の家風を龍興だけが持っていなかったのか。むしろ龍興は祖父や父と違って、正統な後継者として育てられた分、冷酷に実利を取ることができなかった可能性もある。確かに現代でも「アレは、私の仕事なんですよ〜」とかいう人はいるけど、それを堂々とやりきれるのは、一種の特殊能力である。
さて、1563年の信長との激突も、発端は龍興の求心力の問題から起きている。この年、家臣の山岸光信は、墨俣を奪取して対信長戦で優位に立つ軍略を上申している。しかし、龍興はこれを用いなかった。これに西美濃の諸将は反発、あろうことか居城に戻り引きこもってしまった。これをみて信長は出兵したのだが、そうすると今度は龍興のために出兵する武将も現れてなんとか撃退できたという流れである(松田亮『信長の美濃攻略史研究』新美濃史学会、1976年)。
采配を振るえない若社長に、ベテラン社員が「俺の案を使え」と上申する。却下されたら「じゃあ知らん」と有給消化して出社拒否。そしたら競合他社が動き出したので「しょうがねえな」と渋々出てくる。
現代の会社なら即・人事部案件である。

