「男系男子限定」は明治の皇室典範以来
見落としてはならないのは、皇位の継承資格が「男系男子」に限定されたのは、明治の皇室典範以来という事実だ。
その皇室典範の草案段階では、女性天皇、女系天皇を認めたものが複数あった(元老院「日本国憲案」明治9年[1876年]、同「国憲草案」明治13年[1880年]、宮内省立案第1稿「皇室制規」明治19年[1886年])。しかし、当時の“男尊女卑”の風潮によって、そうした選択肢がひとまず排除されてしまったにすぎない(井上毅「謹具意見」明治19年[1886年]など)。
このような経緯を振り返っただけでも、男系男子限定ルールが長年の伝統でも、固守すべき絶対的な規範でもないことが分かる。
「男系」よりも「皇統」
そもそもわが国は、中国の父系制=男系主義の大きな影響を受けながらも、男系だけでなく女系も血統としての意味を持つ双系(双方)的な伝統が指摘されている(吉田孝氏、義江明子氏など)。
歴史を少し丁寧に振り返ると、男系継承とばかり言えないケースも目に入る。
たとえば、応神天皇の誕生は父親だった仲哀天皇が急死した「十月十日」後という作為的なタイミングとされる一方、母親の神功皇后とほかの人物との性的関係を示唆する伝えも残っている(『住吉大社神代記』など)。この天皇が女系を介して皇統につながっていた可能性は排除できない。
その応神天皇の5世の子孫とされるはるかな傍系の継体天皇の場合、直系の皇女だった手白香皇女との婚姻によって、はじめて即位の正当性を得た。それとともに、皇女との間に生まれた欽明天皇からの皇統だけが現代にまで受け継がれており、ほかの女性との間に生まれたお子さまたちは1代限りで、皇統を後代に継げなかった事実がある。よって、これも男系継承と見てよいかは疑いが残る。
あるいは、元正天皇は同時代の基本法である「大宝令」(継嗣令)の規定では、父親である草壁皇子ではなく、母親の元明天皇の血筋=女系とされた。
こうした事実を見ると、皇位の継承については、男系より上位の概念である「皇統(天皇の血統)」による継承こそが、真の伝統として決定的に重要だったことが納得できる。
