貧しい身分だったことは確実
いずれにしても秀吉が卑賤の出自であることを示すものですが、父母の名も誰か分からないと書かれていることもそれを裏付けるものでしょう。実際、先述したように秀吉母の実名は不明です。また父の弥右衛門にしても「木下」という名字を名乗っていた訳ではありませんでした。「木下」という名字を名乗ったのは秀吉であり、それは永禄4年(1561)に寧と結婚した時でした。寧の母が木下家の出身であったので、その名字をもらったのです。
辞典などではよく秀吉を「木下弥右衛門」と書いてあるものもありますが、厳密に言えばそれは誤りなのです。秀吉と秀長の父母については詳しいことは分かりませんが、貧しい階層の出身だったことは確かだと思われます。大政所にしても3回以上の結婚歴があったとも言われており、それもまた夫を失ったことや生活苦が要因だと考えられます。しかしそうした中にあっても4人の子供たち(とも、秀吉、秀長、旭)を育て上げた大政所はたくましい女性だったと想像できます。
この4人以外にも大政所に複数の子供がいたと言う説もあり(フロイス『日本史』)、大政所の波乱万丈の前半生がそうした説からは浮かび上がってきます。
秀吉が54歳になっても心配した
天正18年(1590)、秀吉は小田原の北条氏を征伐するため関東に遠征、小田原城を包囲することになりますが、同年の5月1日に大政所に宛てて手紙を書いています(大政所からの手紙の返信になります)。
そこには「我が身の事。御案じなされまじく候」となるので、大政所は54歳にして遠征している我が子・秀吉の身を案じていたのでしょう。しかし秀吉はそんな母に心配する必要はないと書くのです。「一段と息災」で食事も進んでいると秀吉は息災ぶりをアピール。その上で秀吉は老母に対し「貴方は御遊山でもして心を慰めて若返ってください。お願いします」と労りの言葉をかけています。
この手紙からは母を想う優しい秀吉の姿が垣間見えます。秀吉は他人に対し峻厳な態度を取ることも多い人物ですが、母や弟といった身近な親族、若い頃から苦楽を共にしたであろう親族に対しては思いやりの心を見せています。ちなみに前述の母宛ての書状には「大納言息災のよし、何より何より御うれしく候」と病のため小田原征伐に参陣できなかった弟・秀長の病が一時回復したことを喜ぶ文言も記されているのです。
参考文献
・桑田忠親『桑田忠親著作集 第5巻 豊臣秀吉』(秋田書店)
・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波新書)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)
(初公開日:2026年1月11日)


