天下人になった秀吉の誕生秘話
さて『太閤素生記』には日輪(太陽)が秀吉母の懐中に入った夢を見て秀吉を妊娠・出産したことから秀吉の幼名が「日吉丸」であるとの説が紹介されています。また秀長は竹阿弥の子ということで幼い頃に「小竹」と呼ばれていたと記述されています。
日輪が秀吉母の懐中に入った夢を見て秀吉を妊娠・出産したと言うのは「日輪受胎説」と現代で呼ばれていますが、これは天下統一を果たした秀吉が流布させたものでした。秀吉は貧しい百姓の子として生まれたということもあり、天下に号令するには自分の存在を大きく見せる必要がありました。「日輪受胎説」はそのために創作されたのです。
天皇の子孫だというトンデモ説
秀吉は関白に任官した後は「皇胤説」を創作させました。秀吉に御伽衆として仕えた大村由己は、秀吉の意向に即して『関白任官記』(秀吉の関白就任の正当性を主張する書物)を執筆しますが、そこには次のような記述があるのです。
まず、秀吉の祖父母は朝廷に仕えていた。萩中納言と言った。ところが秀吉の祖父母は、大政所が3歳の時にある人の讒言(間違った密告)により遠流となり、尾張国飛保村雲にて日々を過ごすことになった。
その後、大政所は幼年の頃に上洛。2、3年を宮中で仕えて過ごす。そしてまた尾張国に戻った。その後に大政所は1人の子を産む。これが今の殿下(秀吉)である。秀でた才能を持つ人物に成長したのは秀吉が「王氏」(天皇の血をひく皇胤)であるからに違いない。
これが『関白任官記』が主張するところの「皇胤説」です。
もちろん、この話はにわかに信じがたく、荒唐無稽なものとされています。秀吉に「軍師」として仕えたことで有名な竹中半兵衛重治の息子に重門がいますが、重門の著作に『豊鑑』(秀吉の伝記)があります。同書は寛永8年(1631)に成立したものですが、その中にも秀吉の出自にまつわる一文があります。
それは秀吉は「尾張国に生まれ、あやしの民の子にてありしが」「郷のあやしの民の子なれば、父母の名もたれかは知らむ、一族などもしかなり」というものです。「あやし」の語に「賤」の字を当て、秀吉は卑賤の出自であったとする見解もあれば、「怪し」の文字を当て「得体が知れない」(卑賤を意味する)とする読みもあります。

