信長の父の足軽と結婚した大政所
では同書には秀吉やその母についてどのようなことが載っているのでしょう。まず、秀吉の母については尾張国御器所村(名古屋市昭和区)で生まれたと書かれています。彼女が嫁いだのが同国中々村の人である木下弥右衛門でした。
同書によれば、弥右衛門は織田信秀(信長の父)に仕えた鉄砲足軽であり、あちこちに従軍し働きがあったようです。しかし鉄砲伝来は一般的に天文12年(1543)のこととされており、弥右衛門が活動していた天文年間の初頭(天文元年は1532年)には鉄砲が頻繁に使われていたとは考えにくいです。よってこれは何らかの勘違いを記したものと思われます。
秀吉たちを出産後、夫に死なれる
さて弥右衛門のもとに嫁した後、彼女は瑞龍院(秀吉の姉・とも、大河ドラマでは宮澤エマが演じる)と秀吉を産みました。夫・弥右衛門は織田信秀に仕え戦に出ていた時、負傷。それ以降は合戦に参加することなく、故郷で百姓をしていました。ところが秀吉が8歳の時、弥右衛門は亡くなってしまいます。秀吉の母は未亡人となったのです。それは天文12年(1543)頃のことでした。
『太閤素生記』には、その後、秀吉母は竹阿弥という男性と再婚したとあります。竹阿弥もまた織田信秀に同朋衆(大名に近侍して雑事や諸芸能を司る僧形の者)として仕えていたとのこと。だが、病によってこれまた故郷である中々村に引っ込んでいたのでした。そうした頃に竹阿弥と秀吉母は結ばれたようです。秀吉母は竹阿弥との間にも2人の子を儲けました。『太閤素生記』によれば、それが秀長であり、後に徳川家康の継室となる旭姫だったのです。
つまり同書によると、秀吉と秀長は異父兄弟だという事になります。しかしこの説(秀吉・秀長異父兄弟説)は疑わしいと筆者は考えています。秀長の生年が天文9年(1540)だからです。先程、見たように木下弥右衛門の死は天文12年(1543)頃。まだ弥右衛門が生きている時に秀吉母が竹阿弥との間に子(秀長ら)を儲けることはないでしょう。この事から筆者は秀吉と秀長はその父母は同じと考えているのです。

