前野長康とは義兄弟の契りを

前野長康は岩倉織田家の三奉行・前野小次郎宗康の次男である(『寛政重修諸家譜』では坪内勝定の長男と記されているが、年齢的に難しく、女婿の誤りだと思われる)。

蜂須賀正勝と兄弟の契りを結んでいたといわれ、同時期に秀吉の与力とされたようだ(『織田信長家臣人名辞典』)。天正11年の賤ヶ岳の合戦の功績で、播磨三木城主となり、四国征伐の後、天正13年に但馬出石いずし5万7000石を賜った。九州征伐、小田原征伐にも参陣。文禄の役では民政担当として石田三成ら奉行衆とともに渡海。帰朝後は豊臣秀次の後見役となった。文禄4(1595)年に秀次が切腹すると、長康および嫡男・前野景定は連座の対象となり、父子ともに切腹させられた。

女婿・前野兵庫忠康は俗に「舞兵庫まいひょうご」と呼ばれ、秀次および前野父子の切腹後に石田三成に転仕し、関ヶ原の合戦で討ち死にした。

長康の兄は母方の伯父・小坂おざか孫九郎政吉の養子となり、小坂孫九郎雄吉およしと名乗った。『寛政重修諸家譜』には「織田信雄のぶおにつかへ」とあり、信雄の偏諱へんきを受けたのだろう。『武功夜話』を著した吉田孫四郎雄翟かつかね(1597~1658)は雄吉の孫とされている。

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