主君を3度変え、秀吉の与力に
蜂須賀正勝は通称を小六、彦右衛門といい、海東郡蜂須賀村(愛知県あま市蜂須賀)の土豪で、はじめ犬山城主・織田信清、次いで岩倉城主・織田信賢、斎藤道三に仕え、永禄3(1560)年に信長に転じて桶狭間の合戦で軍功を挙げ、永禄13年(1570)の金ケ崎の退き口で秀吉とともに活躍し、それを機に秀吉の与力になったという(『寛政重修諸家譜』)。
蜂須賀家は尾張守護・斯波家の末裔を自称している。ただし、蜂須賀小六正勝といえば、『太閤記』で野盗の頭目として描かれているぐらいなので、そんな高貴な出自とは思えない。全くの嘘っぱちのように聞こえる。しかし、意外にもその可能性があるらしい。
『太閤記』では、秀吉と正勝が出会ったのは三河国岡崎の矢作橋ということになっている。夜盗の頭領であった正勝が家来たちを連れて橋に通りかかり、そこで寝ていた秀吉(日吉丸)の頭を蹴ったまま行き過ぎる。目を覚ました秀吉が抗議し、正勝はこの若者の気概に感じ入って無礼を謝り、彼を客分として屋敷に招いたという。
という「矢作川の出会い」はウソだとしても、もっと早くから秀吉に仕えていたと思うのは筆者だけではないだろう。『織田信長家臣人名辞典』では、『太閤記』で永禄9(1566)年9月に秀吉の仲介で信長に仕えた説を紹介しているが、「豊臣兄弟!」でもそれくらいの時期に正勝が登場してくる。
天正元(1573)年に信長が北近江の浅井長政(中島歩)を滅ぼし、秀吉が近江長浜城主となると、正勝は秀吉から長浜に領地をあてがわれる。ここで秀吉と正勝の間に主従関係が成立するのである。「豊臣兄弟!」では、秀吉が墨俣城を築くため、正勝に協力してくれたら後に城を授けると口説くが、それはこの展開の伏線であろう。
実は信長に直接仕えていた?
天正7(1579)年の三木城攻めでは武功をあげた際には、信長から尾張海東郡のうちで加増されており、両属みたいな感じになっている。まぁ、当時は主従関係が江戸時代ほど厳格じゃなかったのだろう。
谷口克広氏が蜂須賀正勝について興味深い指摘をしている。すなわち、「三木攻略後は長秀(秀長)に従って山陰で働くことが多いが、戦闘に関しては子家政に任せがちになる。それよりも同九年頃、山陰での戦いについていちいち信長に注進して、信長の指示を受けており、秀吉に密着した立場にありながらも、目付役を務めていたのではないかとも思われる」(『織田信長家臣人名辞典』)。
秀吉は山陽方面に軍を進め、山陰方面を秀長分隊に任せた。秀長がいくら優秀であっても、戦の駆け引きには経験豊富な人材が必要なので、50代になった正勝が参謀役として秀長に附けられたのだろう。その一方、正勝の子・蜂須賀家政が20代になったことから、蜂須賀家の軍事指揮を委ね、世代交代を図ったものと思われる。
天正11(1584)年の賤ヶ岳の合戦後の領地配分で、蜂須賀正勝は播磨竜野城主となった(一説に天正9年)。天正13(1585)年に子・家政とともに四国征伐の主力を成し、合戦後には家政が阿波徳島を賜った。翌天正14年に死去した。
