天皇を利用し尽くした

1588年、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招きます。むしろ行幸(天皇の移動のこと)の為に、聚楽第を建てました。

この際、天皇の弟の六宮(後の智仁としひと親王)を養子とすることを許してもらい、将来は関白を譲るとまで言い出します。しかし、1589年に実子の鶴松が生まれると、智仁親王が邪魔になり、八条宮家を創設してそちらへ。あのなあ。

悪いことはできないもので、鶴松が夭逝してしまいます。それでもメゲてもいられない秀吉は、1591年に甥の秀次に関白を譲ります。豊臣家による世襲の宣言です。もっとも、その秀次を後に殺してしまうのですから、錯乱してます。

このように、秀吉と正親町天皇、後陽成天皇の関係は、一応は良好です。秀吉は晩年の信長と違って、朝廷を大事にする以外の選択肢がありませんから。秀吉は出自の問題(ハンディ)が大きすぎます。

ただ、本気で尊崇しているのではなく、利用しているだけ。秀吉は「実は天皇の御落胤」とかトンデモないデマを流していますが、勝手に父親にされた正親町天皇からしたら「お前の母親が自分の女中として仕えて、お前をはらんで農民になったのか」です。バカにしてんのか?

倉山満『嘘だらけの日本近世史―皇室から見た江戸時代―』(扶桑社)
倉山満『嘘だらけの日本近世史―皇室から見た江戸時代―』(扶桑社)

秀吉が関白として権力を振るっている以上、院政を行う余地はなく、70歳で譲位した正親町上皇は、平穏な余生を過ごしたようです。それでも出陣の際の見送りには駆り出され、朝鮮出兵で秀吉が京都を離れる時は見送りをしています(藤井譲治『天皇と天下人』講談社、2011年)。ちなみに秀吉の渡航を全力で止めるのは、後陽成天皇の仕事。

正親町上皇、1593年に崩御します。贈り名は「正親町に住んでたんだから、正親町院でいんじゃね?」と軽く決定。

原文は、「院の北の御門正親町通ナル故」です(『正親町天皇実録』第二巻。歴代天皇実録はすべて、ゆまに書房で発行年省略)。

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