漁夫の利で「藤原」になる

秀吉を養子にした近衛前久、非常にユニークな人で、とてもお公家さんとは思えない人です。人生の半分を京都におらず、全国を駆け巡っています。上杉謙信と血盟を誓って、一緒に戦に参加したりしています。

近衛家と言えば、五摂家筆頭。皇室を除けば日本最大の名門です。摂政を出せる家柄を摂家と言うのですが、5つあって全員が藤原氏。その中でも、近衛家は藤原宗家です。摂政とは天皇の代理で、幼帝の時に置かれます。

天皇が成人したら、関白が置かれます。関白は、最初は摂政の前官礼遇で始まったのが、天皇の第一の臣下で定着しました。ちなみに大河ドラマ『麒麟がくる』では本郷奏多さんがコミカルに演じていましたが、前久ってあんな人だっけ?

近衛前久の政敵が二条晴良にじょうはるよし。『麒麟がくる』では、よしもと新喜劇の小籔千豊が嫌味ったらしく演じていました。まあ、あんな感じの人だったしょうね。知らんけど。

家康が頭を下げざるを得なかった理由

前久の息子の信輔と晴良の息子の昭実あきざねが、関白の座を争いました。関白相論と言われます。信の字は織田信長から、昭の字は足利義昭からもらっています。偉い人の字をもらうことを偏諱へんきと言って、「貴方の派閥に属します」の宣言です。それにしても、とことん仲が悪い。

信輔が昭実に関白を譲れと要求して、争いが泥沼化します。そこで妥協案として「秀吉に関白になってもらおう!」との意見が飛び出し、前久が飛びつきます。秀吉を養子にして藤原に改姓させ、従一位関白にしました。

この時点で既に秀吉に対抗できる実力者はおらず、信長死後3年にして、絶頂期の信長を超える実力と地位を手にしました。島津、北条、伊達など、秀吉に従わないローカル勢力もいましたが、一方的に掃討。教科書では「1590年に天下統一」とされます。「トーゴク丸めて天下統一」と覚えさせられた方も多いでしょう。しかし、1585(天正13)年の時点で大勢は決しているのです。だから家康も頭を下げざるを得ないのです。

狩野探幽作 徳川家康像
狩野探幽作 徳川家康像(写真=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons