戦国時代を終わらせた「秀吉の偉業」
秀吉は同じ1585年、九州に向けて「惣無事令」を出します。関東に向けては1587年。惣無事令とは「私闘の禁止」です。戦国時代とは「自分の生命と財産は自分で守る」「殺されたくなかったら他国を奪う」の時代です。秀吉はそれをやめよと命令したのです。天皇の名前で。島津も北条も惣無事令違反で討伐されました。伊達は北条攻めの最中に降伏。
秀吉に臣従したくない大名は「なんでお前如きの言うことを聞かねばならないんだ?」と思ってるのですが、それに対して秀吉は「天皇陛下の第一の臣下である俺様の言うことが聞けないのか」との論理で対抗しているのです。その代わり、臣従したら徳川や上杉のような大名はもちろん、小早川隆景のような毛利の家臣筋の人間にも官位をバラまきます。
秀吉は従った大名たちを朝廷の官位の秩序の中に組み込んで、支配したのです。
1586(天正14)年11月、正親町天皇が譲位します。応仁の乱の前の1464(寛正5)年の後花園天皇以来、実に122年ぶりの出来事です。皇室にとって戦国時代とは、言ってしまえば「譲位ができない時代」ですから、戦国の終わりを象徴する出来事です(小著『国民が知らない上皇の日本史』祥伝社、2018年)。これも秀吉の偉業です。
官位バラまきで「豊臣家康」の時代も
本当は皇太子の誠仁親王が登極の予定だったのが、直前で急死。誠仁親王の息子(つまり正親町天皇の孫)の周仁親王が践祚しました。後陽成天皇です。朝廷では秀吉の関白就任はワンポイントリリーフと考えられていたようですが、秀吉にそんな気はありませんでした。
12月、新帝の下で太政大臣に。もはや信長を超えるどころか、平清盛や足利義満と並びます。そして新たに豊臣の姓を賜ります。ここで、藤原良房以来約700年の摂関独占が崩れます。一時的に「六摂家」になっていました。
ついでに家臣となった大名たちに豊臣の姓も押し付け――じゃなかった、与えています。例えば徳川家康の本姓は源氏なので「源家康」ですが、短い期間は「豊臣家康」です。後に、そんな歴史的事実は無かったかのうように、「源家康」に戻していますが。

