「開かれた皇室」を閉ざし天下人へ
最近では日本中世史研究の「レジェンド」と紹介される今谷明先生にお聞きした話なのですが、戦国時代の御所は庶民が入れたそうです。御進講した際に、驚かれたともお聞きしました。誰に驚かれたかは、控えますが。
だから、後奈良天皇が宸筆の書や和歌なんかを置いておくと、庶民がお金を置いて持って行ったのです。ちなみに宸筆とは、天皇が自分で書いた字のこと。後奈良天皇は不正な金を受け取るのが嫌で、貧乏でも自分で稼ごうと内職(バイト)していたのです。無人販売で。庶民の方も、「ここまではいいけど、こっから先は入っちゃダメ」ってのを心がけていたようで。
それを秀吉が立ち入り禁止にしました。もちろん、「開かれた皇室」をやめ、権威を高めるためです。
秀吉の天下統一戦略において、朝廷は中核になります。
もちろん戦国時代ですから、武力を持っていなければ、誰も言うことを聞きません。しかし武力だけでは長続きしないのも、戦国時代の特徴。天下人になる必要条件が武力で、十分条件が権威による承認なのです。
秀吉は天皇から認められた
それがよくわかるのが、1584年の小牧長久手の戦いから、翌年までの流れです。
小牧長久手の戦いとは、羽柴秀吉と徳川家康が直接戦った戦いです。徳川史観では「徳川が勝った」ことになっていますが、そんなのは後に家康が天下を取ったからのプロパガンダにすぎません。実際は、秀吉の勝ちです。どうやって勝ったか。
家康は信長の遺児の織田信雄と組んで、さらに越中(富山県)の佐々、紀州(和歌山)の雑賀、四国の長曾我部を巻き込み、秀吉に戦いを挑みます。そして秀吉がいない局地戦では勝利を収めます。秀吉と家康の一騎打ち自体は、睨み合いの膠着状態。両者ともに兵を引きます。
その間に秀吉は同時並行で翌1585年にかけて、信雄、佐々、雑賀、長曾我部を各個撃破。家康を孤立させます。6月から8月にかけて長曾我部を攻める四国征伐を行っているのですが、圧倒的有利な状況の7月、元関白で准三后の近衛前久の養子となり、藤原に改姓し、藤原秀吉を名乗ります。そして従一位関白に。
要するに、秀吉は正親町天皇から天下人として認められました。大勢は決していたからこその、承認です。ほどなくして、家康は秀吉に忠誠を誓いました。

