「死の列車」の時刻表を作成
SSの国家保安本部に七局ある国家保安本部各局(RSHA)中の第IV局が、国家秘密警察ことゲスターポ(ゲシュタポ)であった。そのB4課すなわち「ユダヤ人課」の課長がアドルフ・アイヒマン(1906~62)。戦後、イスラエルによって逮捕され、「アイヒマン裁判」で世界の注視を受けることになるSS中佐である。
その部下であるa係長ロルフ・ギュンター(1913~45?)SS少佐が輸送問題の課内の責任者であり、移送計画ごとにガイドラインを作成、各地保安警察とのやりとりをおこなった。各地からは移送人数とともに必要な列車本数、出発駅、期日が上がってくるので、ギュンターのa係がこれをまとめ、ライヒスバーンへの発注をおこなう。
a係のフランツ・ノヴァクSS大尉はここからライヒスバーン担当者との詳細をつめる協議を定期的におこない、発着駅決定と業務時刻表を作成した。
運行調整を行ったベテラン鉄道員
この定期会合にライヒスバーンから出たのは、交通省鉄道部門ドイツ・ライヒスバーン本部第Ⅱ局(EIIこと営業運行部)第21課(大型輸送担当)第1係(旅行特別列車係)係長オットー・シュタンゲ(1882~1950)であった。
高官というにはあたらない。もう20年も同じポストにいるベテランの鉄道事務官であった。よく自室で電話に向かって声を荒げている姿を、同僚に記憶されている。
彼がユダヤ人課a係ノヴァクSS大尉との会合での受注をもとに多くの国境、占領区や鉄道管区をまたぐ長距離運行の調整をおこなった。
調整による策定結果は、まず第21課長パウル・シュネル(1883~1958)に上げられ、ライヒ内の三管理総局に列車の割り当てと時刻表的な確定がここから命じられた。もっとも役割を果たしたのは、東部管理総局(Gedob Ost)である。
ユダヤ人移送列車は「Da」「Pj」
管理総局は特別列車の周行計画表(ウムラウフブラーン)を確定し、これを各鉄道管理局に伝え、最終的な時刻表(運行計画)をつくらせた。周行計画表では、ユダヤ人移送特別列車には、「Da」や「Pj」の略号と番号が振られた。
「Da」は「急行列車(D-Zug)」でもあり、「デポルタツィオーン(Deportation)」、あるいはユダヤ人を示す「ダビデ」でもあるといわれる。「Pj」は総督府すなわちポーランドのユダヤ人(Juden)である。
しかしシュタンゲの第1係が運行する「特別列車」は、この「Da」や「Pj」だけではなかった。平時の当たり前の団体旅行用列車は戦時にはほぼなくなっていたが、戦時ナチス・ドイツでは、児童などの疎開列車や、あるいは東部からの強制労働力を運ぶ列車も「特別列車」であった。
シュタンゲはデポルタツィオーンの促進役であり監視役であったとされるが、のちにいう「死への特別列車」の計画は、一日中執務室にとじこもっていた第1係長にとっても、忙しい日々の業務の一部でしかなかった。


