すべての道はアウシュヴィッツに通ずる
これに先立ち、ライヒスバーンはすでに多数のユダヤ人を移送していた。戦前の1938年10月にはドイツから多数の「無国籍」ユダヤ人を移送し、ポーランド国境に置き去りにしている(この仕打ちが、「11月ポグロム」の前哨となった)。
開戦後はライヒ各地からポーランドへの移送を繰り返し、1941年春にはワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)に7万人以上を送りこんでいる。このときは迫害と食糧難にあえぐゲットーで、隔離したユダヤ人を徐々に死滅に追い込もうとするものであった。
ドイツ(ライヒ本体)から東方へのユダヤ人移送は、記録にある限りでは1941年9月・10月により組織的に進められるようになった。各地大都市を起点に、ライヒに残存するユダヤ人を対象とする、リッツマンシュタット(ポーランド名ウッジ)などの中継収容所や、東部大都市のゲットーへの移送がなお主だった。
ピーク時は、270本の列車が14万人以上を移送
独ソ戦開始の41年秋から、絶滅収容所の建設がはじめられていた。ヴァンゼー会議の決定は、42年春にはじまった「ラインハルト作戦」で実行に移された形となる。ポーランド総督府内のゲットーが次々と撤去され、ベウジェッツ、ソビボル、トレブリンカといった新設の絶滅収容所への強制移送が開始された。
記録が残されたライヒからの移送の件数・人数のピークも、この42年である。270本の特別列車が、約14万人以上を移送したことがわかっている。同じ年、フランス、オランダ、ベルギーなど西欧の占領地からも同様の列車による移送が開始された。
デポルタツィオーンは、親衛隊ことSS(全国指導者ヒムラー)がライヒスバーンに委託し、三等車運賃を移送規模に応じて支払う契約を結ぶ形でおこなわれた。ライヒ、西欧、南欧からの絶滅収容所への死の移送は、東欧での虐殺と異なり、分業による行政的な手続きという外見を崩さなかったとされる。


