すべての道はアウシュヴィッツに通ずる

これに先立ち、ライヒスバーンはすでに多数のユダヤ人を移送していた。戦前の1938年10月にはドイツから多数の「無国籍」ユダヤ人を移送し、ポーランド国境に置き去りにしている(この仕打ちが、「11月ポグロム」の前哨となった)。

開戦後はライヒ各地からポーランドへの移送を繰り返し、1941年春にはワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)に7万人以上を送りこんでいる。このときは迫害と食糧難にあえぐゲットーで、隔離したユダヤ人を徐々に死滅に追い込もうとするものであった。

ドイツ(ライヒ本体)から東方へのユダヤ人移送は、記録にある限りでは1941年9月・10月により組織的に進められるようになった。各地大都市を起点に、ライヒに残存するユダヤ人を対象とする、リッツマンシュタット(ポーランド名ウッジ)などの中継収容所や、東部大都市のゲットーへの移送がなお主だった。