列車は10両編成、およそ1000人を詰め込む

ライヒスバーンは1日に2万本の列車を運行していた。1日10本ほど走るくらいのデポルタツィオーン列車は、経営の観点からも幹部たちなどが眼中に入れなくてもよい存在であったといえる。

デポルタツィオーンがユダヤ人にいかなる惨苦を与えているのかを考慮にのぼらせる人間は少なかった。大量の悲惨や死はすぐ身近にありすぎたので、他者の運命への同情や共感の能力は鈍麻せざるをえなかったのだろうか。

「死への特別列車」の編成も1回に運んだ人数もかなりばらつきがあるが、1列車で10輌程度の貨車におよそ1000人を詰めこんだ場合が多く、これをモデル・ケースとできる。

ポーランドの旧ナチス絶滅収容所での鉄道車両
写真=iStock.com/titoslack
ポーランドの旧ナチス絶滅収容所での鉄道車両

明り取りの窓には鉄条網がまかれ、出入り口には外から鍵がかけられた。車内で1人が占有できる面積を単純計算すると、信じがたい数字が出る。長時間すし詰めの貨車内には、排便用のバケツが置かれているだけで、それ以外の設備は、暖房はおろか座席すらない。

救いを求めて窓から手を突き出す人々

東部の交通事情は早くから混乱渋滞し、そのなかで軍事輸送が優先されたから、デポルタツィオーンの列車は走行を停止し、しばしば長い待機をおこなった。その時間だけ、「乗客」(とライヒスバーンはなお呼称した)の苦しみは増した。

ライヒ内の駅で停車時にはドイツ赤十字の人びとが、護送監視役のSSにコーヒーやスープを振る舞ったが、渇きの救いを求めて明り取りから手を突き出す人びとに、与えられる水はなかった。

SSによる監視は手薄気味だったので、闇夜にまぎれた「飛び降り(ジャンパー)」と呼ばれる決死の脱出者はたしかにいた。少なからぬジャンパーが「常習犯」すなわち複数回の脱出経験者であった、というのはその不屈の意志に驚くべきだが、「飛び降り」が当時のナチス・ドイツでは完全な逃亡成功にはならなかったという意味でもあろう。

移送中に赤ん坊をはじめ弱い者から死んでいったが、ときに三昼夜におよぶ移送の責め苦に耐えて生き残ったとしても、収容所での労働不可能と思われた老人、子ども、多くの女性には、運ばれた先に、選別とすみやかな虐殺が待っていた。