ついにやってきた初契約
ただ、がんばり続ける人間を神さまは放っておかない。ついにそのときがやってきた。ある日の夕刻、上原さんが意気揚々と帰ってきた。
「契約、取れました!」声を弾ませる。
「やったがね。ようやくかぁ。PT3の操作(※6)、大丈夫だったか?」タッコーも嬉しそうだ。彼の苦労とがんばりを見ている金融渉外部の面々も、このときばかりは一斉に祝福ムードになった。
ただ、私には気がかりなことがあった。保険の契約に至る関門「健康告知」だ。契約に不慣れな上原さんは健康告知をしっかりとやってきたのか? 心配になったが、「初荷」に大喜びしている上原さんにそんなことを尋ねる気にはなれなかった。
営業マンはそれぞれが契約用タブレットを保有している。ここにはほかのメンバーの契約状況もすべて表示される。契約手続き後、何もなければ、翌日かその次の日には「契約成立」の文字が現れる。逆に、もし健康告知などで引っかかれば、「謝絶」の表記が出る。契約を取ったあとの数日間、営業マンは誰もがびくびくしながらこのタブレットで契約状況を頻回にチェックするのだ。
※6 PT3の操作
覚えるのが難儀というのは前述したが、電波が悪いと途中で画面が固まってしまい、契約手続きを最初からやり直すという事態がたびたび発生した。Y郵便局のテリトリーには山あいのお宅もあり、電波状況の悪さに冷や汗をかいた。
健康告知で不正をしなかった
翌日もその翌日も、上原さんの「初荷」はお預け(※7)になっている。
結局、この案件は「契約成立」に至ることはなかった。どうやら健康告知で引っかかり、謝絶案件(※8)となってしまったらしい。私は上原さんにかける言葉もなかった。
とはいえ、私は上原さんの行動に感心していた。
彼は挙績のプレッシャーに追われながらも、健康告知で不正を行なわなかった。金融渉外部のメンバーには健康告知をごまかす者も見られる中、彼はきちんと正しい仕事のやり方を押し通したのだ(もしかしたら不正のやり方を知らなかっただけかもしれないが……)。自分が逆の立場だったら、彼のような判断ができるだろうか。
健康告知をインチキして週に何件も契約を獲得するよりも、上原さんのやり方のほうが間違いなく正しい。しかし、会社はそう評価しないし、ボテは稼げず生活は苦しくなる。
それからほどなく、上原さんはまたしても休職に入ることになった。朝礼で真島課長から「上原さんは本日よりお休みになります」とだけ報告があった。表面張力ぎりぎりで耐えてきた水面が何かのきっかけで崩壊したのだ。
※7 「初荷」はお預け
明らかに重たい病気はすぐに謝絶となるのだが、微妙なものについては数日を要した。このあたりはかんぽ生命の診査部門がしっかりと仕事をしているのだろう。
※8 謝絶案件
健康告知でNGとなったケースについては、タッコーや真島課長は鷹揚としており、叱責などはない。「またほかのお客、捕まえてこいよ」という程度でスルーされていた。営業マンのほうも「まあ、しゃあねえか」程度の反応だった。そこに「お客さまに対しての想い」など存在しないのだ。

