「自分たちで売るしかない」浅野撚糸の復活

浅野氏はこの危機的な状況を挽回するためにある決意をしていた。このままではいずれ倒産してしまう。やはり問屋に頼っているだけではだめだと考えた。

「こうなったら自分たちで売るしかないと思いました。当時は今と違って町工場がブランドを作るなんて考えられない時代でしたが、とにかく自分たちのブランドを作ろうと決めたのです」

商品名は「エアーかおる」。表記を「KAOL」とし、Kはクラレ、Aは浅野撚糸、Oはおぼろタオル、そしてLはLIVE、共に生きるという意味で名付けた。

予想はしていたものの、最初はほとんど売れなかった。1カ月間100件営業に回っても、売れたのはたったの50枚。それは浅野氏の親戚と社員に買ってもらった分だった。

あるとき、以前から付き合いのある問屋が展示会への出展をアドバイスしてくれた。

「浅野さん、このまま営業を続けていても今の厳しい状況は変わらないだろう。だったら新たな販路開拓を目指して東京ビッグサイトに出展してはどうだろうか?」

浅野氏はその言葉にすがる思いで出展を決めた。最初はなかなか反応がなかったが、苦しい中でもなんとか踏ん張って3年間出展を続けた。すると2010年2月、3年目の展示会でようやく大きな受注を獲得する。吸水力の高さを活かしてバスタオルの半分サイズとし、プロモーションビデオを流したのが功を奏したのだ。その結果、国内大手企業の3社で採用が決まった。

その後は右肩上がりで順調に売り上げが回復し、2014年には過去最高の売り上げとなる8億円を達成。口コミでの広がりに加えてテレビショッピングの看板商品に採用され人気がさらに高まった。数々のメディアで紹介されるようになり、2019年には売り上げが23億円にまで拡大する。協力会社を含めて借金返済のメドがようやく立つようになった。浅野撚糸はついに復活したのだ。

浅野撚糸本社工場
写真提供=浅野撚糸
浅野撚糸本社工場

人のいない町から、世界への挑戦

ようやく一息つけた浅野氏だったが、再び危機に直面することとなる。きっかけは、経済産業省の課長からの「福島の復興に力を貸してほしい、福島に進出してほしい」という相談だった。

大学時代は福島に住んでいたこともあり多少のうしろめたさはあったが、浅野氏ははっきりと断るつもりでいた。やっと妻にも楽をさせてあげられる。正直、ここで大きなリスクを背負いたくはなかった。

それでも現地への視察を熱心に誘われたので、ちょっとした旅行のつもりで出かけていった。しかし、福島第一原発があった双葉町で目にした光景は、浅野氏の想像をはるかに超えていた。見た目は普通の街並みなのに、全く人がいないのだ。

そこは11年5カ月、全く人がいない町だった。浅野氏は自然と涙が出てきて止まらなかった。何とかこの町の復興の力になりたい。しかしそれは同情の気持ちだけではなかった。ビジネスの可能性を感じていたのだ。

「震災復興のシンボルとなるこの町でビジネスを拡大できれば、間違いなく浅野撚糸も世界にアピールすることができる。地方の町工場でも、夢を忘れずに続けていけば世界中にその存在を知ってもらえる。自分たちでそれを証明したいと思ったのです」

浅野氏は、16年前の廃業危機のときに強く感じていた「下請けから脱却したい」という気持ちを思い出していた。「地方の町工場でも頑張ればここまでできる。スターになれるんだ」ということを証明したい衝動に駆られていた。