私たちにはまだ、設備と技術が残っている

会長だった父の博氏からは廃業を強く迫られた。それでも、浅野氏は断固として首を縦に振らなかった。それには、2つの理由があった。

ひとつは協力工場をどうしても救いたいという想いだ。協力工場の多くは浅野氏を信じて6000万円以上もする高価な設備を買っていた。浅野撚糸と同時期に導入していた工場はかなりの部分で投資回収が進んでいたが、導入が遅かった工場では借金がほぼそのまま残っていた。協力工場は夫婦で経営している零細企業が多く、行き詰まるのは必至だった。

もうひとつは、下請けの惨めさを痛感したことだった。取引先の商社から言われた通りに高価な設備を購入し技術を磨いたのに、海外でも同じような製品が作れるとわかったとたん、あっという間に仕事がなくなってしまった。

市場が右肩上がりのとき、商社の担当者は「このストレッチの市場は絶対になくならない、未来永劫に続く」と言っていた。それを信じた自分たちが馬鹿だった、本当に哀れだと浅野氏は思った。

それでもこの現状を何とかして変えたい――。浅野氏はまだ諦めていなかった。

「当時、私たちにはまだ最新の設備と複合撚糸の技術が残されていました。撚糸の組み合わせは無限です。ストレッチに変わる新たな組み合わせを開発できれば、必ずチャンスはあると確信していました。だからそのチャンスに賭けてみようと思ったのです」

本社工場の撚糸設備
筆者撮影
本社工場の撚糸設備
残された最新の設備と複合撚糸の技術に賭けた
写真提供=浅野撚糸
残された最新の設備と複合撚糸の技術に賭けた

全く先の見えない毎日の繰り返し

まずは協力工場のために仕事を確保する必要があった。浅野氏は1件でも仕事を受注するため、営業回りを続けた。のこぎり屋根と呼ばれる紡績関連の工場を手あたり次第、200~300軒は回った。

県内の工場を全て回り、関西方面にも足を延ばした。以前に取引があった商社にも訪問してみたが、さすがに会ってくれなかった。明らかに居留守を使われていた。

もう行くあてはほとんど残っていなかったが、それでも営業活動を止める訳にはいかなかった。協力工場の人たちが、仕事を持って帰るのを待っている。だから、明るいうちには会社に戻れなかった。

あたりが真っ暗になってから会社に戻り、夜の9時から夜中まで新しい複合撚糸の開発を続けた。全く先の見えない毎日の繰り返しだった。

あるとき浅野氏は営業先の大阪で、かつて取引先だった大手総合化学メーカー・クラレの看板を目にする。懐かしくなって当時の担当者に電話をかけたところ、運よくまだ在籍していたことがわかった。7、8年ぶりに声を聞いた。懐かしさもありそのまま食事に出かけ旧交を温めた。