なりえないはずの「勲功第一」
そしてもう1つの課題が、諜報活動によって義元本陣の場所を信長に報告したといわれる簗田政綱の存在である。
文献に登場する名は「梁田出羽守」で、「政綱」の名が出てくるのはずっと後だ。したがって本来なら「梁田出羽守」という表記にすべきだが、ここでは一般的に知名度の高い「政綱」で通す。
桶狭間の戦いで信長に奇襲戦術を進言した勲功第一の者として知られるが、「進言した」=義元がどこにいるかを信長に知らせたとは断言できないし、証明する史料もない。わずかに地元の土豪出身で地形などを熟知し、情報収集に長けていた“可能性がある”というだけである。
政綱の手柄を記録した初出が『甫庵信長記』なのも問題視される。『信長公記』をベースにはしているが、後から著者・小瀬甫庵が“創作”を多く書き加えた信頼性の落ちる書で、次のように記されている。
敵の背後をつこうと述べているだけで、義元の本陣を知らせているわけでもない。ましてや、鷲津・丸根の両砦を落としたのは松平元康(のちの徳川家康)で、義元本隊ではない。政綱が布陣の件を知るはずもなかった。
劇的で面白い物語が真実を覆い隠す
それが江戸初期に成立した軍記物語『備前老人物語』に、いきなり梁田出羽守の「善き一言」によって大勝し、義元の首を取った毛利新介よりはるかに高い「沓掛村三千貫の地」を与えられたと書いてある。しかも、「この事、信長記に載せし所」とある。「信長記」とは『甫庵信長記』のことだが、前述の通り「沓掛村三千貫の地」を賜ったなどとは書かれていない。
後年、政綱が桶狭間から5kmほどの沓掛を所領していたことはうかがえるものの、それは永禄10(1567)年頃のことと考えられ、桶狭間の戦い直後に賜ったとも断言できないのだ。
さらに不透明なのが「善き一言」。後世この一言こそ、諜報活動によって信長にもたらされた「義元の居場所」だったと拡大解釈された可能性が高い。信長の勝利があまりに鮮やかだったため、事前に誰かが情報を提供しなければなし得ないと、誰かが考えたのだろう。
その誰かとは、大日本帝国陸軍――何のことはない、またもや『日本戦史・桶狭間役』に行き着く。同書が『備前老人物語』について触れているのが、何よりの証拠だ。
明治時代の軍部が分析・提唱した説からは、そろそろ脱却した方が良い。だが、『日本戦史・桶狭間役』による迂回奇襲説や梁田政綱諜報説が、劇的で面白い“ストーリー”であるのも確かなのである。
だから、そうした過去の説とアップデートした説の両方を知り、さらにそれが大河ドラマにどう反映されているのか興味を持つこと――繰り返しになるが、それが大河ドラマを2倍楽しむ方法になると思うのだ。
参考文献
・藤田正行『歴史読本「異説・桶狭間合戦」』(新人物往来社、1982年)
・藤田正行『信長の戦い①桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)
・太田輝夫『桶狭間合戦 奇襲の真実』(新人物往来社、2012年)
・日本史史料研究会監修、渡邊大門編『信長軍の合戦史1560-1582』(吉川弘文館、2016年)
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