信長も驚いたか、近すぎた本陣
では義元は、そもそもどこにいたのか? 前掲の地図のオレンジ枠のどこかに、本陣を張っていたと推定される。
このオレンジ枠は中島砦から手越川を挟んで北に広がる丘陵地帯で、「桶狭間」とはこの一帯を指している。『信長公記』には「義元本陣は「おけはざま山(桶狭間山)で休憩していた」と記されており、その山が標高54.5mの高根山と考えられている(地図の②/なお「桶狭間山」の比定地はもう1カ所あり、これについては後述)。
しかし、私は織田軍が義元の居場所を正確につかんでいたとは思えない。実際、この丘陵地帯には高根山の他、幕山や生山といった小高い丘が多くあり、義元本陣の位置特定は困難を極めたのではないだろうか。のちに述べるが簗田政綱の諜報活動によって義元の居場所が筒抜けだったという、これまでの大河ドラマで何度か描かれた説も、実は眉唾なのである。
それがどうしてわかってしまったかというと、前述の300騎が戦闘の中で不自然な動きをしていたことが目立ったのが原因だったのではあるまいか。あるいは義元が乗っていた「輿」が遺棄されていたため、その存在が露見しまったとか……。
いずれにせよ、中島砦にいた信長精鋭軍と義元本陣とが、わずか数kmの至近距離で対峙していたのは間違いない。義元は、いつのまにか危険な場所に身を置いていたことになるだろう。油断があったと考えて良いのではなかろうか。
研究者の数だけ「桶狭間」がある
ここまで述べてきたのは藤本正行が提唱した「正面攻撃説」を基にしている。筆者はこれを推している。
ただし、他に捨てがたい説もある。田楽坪といわれた一帯にある標高64.7mの山を「桶狭間山」と比定し、義元本陣があったとする「田楽坪戦場説」だ(地図の③)。令和2(2020)年の大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を務めた歴史家の小和田哲男が提唱しており、同作の紀行コーナーでも紹介されていた。田楽坪には現在、桶狭間古戦場公園もあり、有力な候補地なのは確かである。
また、『日本戦史・桶狭間役』に新解釈を加えた奇襲説を唱えている方もいる。愛知県の地元研究者である太田輝夫だ。「正面攻撃説」はいわば織田勢の「気合い」「幸運」の賜物だったとしかいえない一面があり、根拠に今ひとつ乏しい。そこで北側の山中を迂回して、義元の本陣を急襲したのが真相ではないかという。
とはいえ、小和田・太田の両説が唱える義元の本陣は、信長が出陣した中島砦と約10km以上離れており、その長い距離を少数の織田軍が突破できたのかという疑問が残り、主流になり得ていない。

