桶狭間に「奇襲」は存在しない
織田信長の軍の兵だった太田牛一が記録した、桶狭間の戦い当日の出陣の様子だ。牛一は当時34歳。のちに信長の一代記『信長公記』を著す。
『信長公記』は良質との定評を持つ史料で、桶狭間の戦いについて後世の人々が語り、記したものは、基本的にこの記録によるところが大きい。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』1月18日放送回で、小栗旬さん演じる信長が織田方の砦が陥落した報告を聞き「出陣じゃ!」と叫んだ場面も、元をたどれば『信長公記』に記されている。
ところが、『信長公記』を“読み誤った”人々がいた。明治32(1899)年、大日本帝国陸軍参謀本部が出した軍事研究書『日本戦史・桶狭間役』の編者たちである。
以下は再び『信長公記』から――。
はっきりと善照寺砦の南にあった中島砦に向かったと書いているのに、『日本戦史・桶狭間役』は、信長は善照寺砦から北東を迂回し、そこから一気に南下して田楽狭間の義元本陣を“奇襲”して勝利としたのである。
この説によると義元本陣は地図の①にあった。現在の国指定史跡・桶狭間古戦場伝説地の辺りだ。
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80年後に覆された「天才的軍略家」像
これによって桶狭間は河越城の戦い、厳島の戦いと並ぶ「日本三大奇襲」などと称され、戦いを勝利に導いた信長は天才的軍略家であるとの評価が定着するのだが、実は義元本陣を不意に襲ったとする記録など、そもそも存在しない。
『日本戦史・桶狭間役』が、どういった意図を持って奇襲説に至ったか、今となっては不明だ。あくまで想像だが、たとえ少数でも大軍に勝つことはできるといった戦意高揚に利用したかったなど、そんなところではないかと思う。
昭和57(1982)年、歴史・軍事史研究家の藤本正行が『信長公記』を再検証し、『異説・桶狭間合戦』を発表して「奇襲はなかった」と結論付けると、反響を呼んだ。『日本戦史・桶狭間役』から約80年後、ようやく情報がアップデートされたのである。
藤本は、信長は迂回して奇襲したのではなく、中島砦を出て正面から今川の前軍(先鋒)と激突したとする「正面攻撃説」を主張した。
軍勢は織田2000。対して今川は尾張に侵攻した総数が2万5000だったとしても、複数に分散させていたため、織田軍と戦った前軍は4000〜5000ほどだったと考えられる。


