信長の真の才能は巧みな人心掌握
2000vs.4000〜5000。数的にまだ不利だったが、信長軍の戦意は極めて高かった。再び『信長公記』から――。
首は恩賞の対象だが、そんなものにはこだわるな。参加すること自体が手柄である――勝てば全員に恩賞を与えると宣言したに等しかった。逆にいえば、恩賞にありつくには絶対に勝たねばならない。勝つ、勝つ、勝つしかない――否応なく士気は高まったろう。
こうした話は、藤本正行が『異説・桶狭間合戦』を改訂・補足した『信長の戦い(1) 桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社)などでも読むことができる。ぜひ一読を薦めたい。大河ドラマも、歴史の裏側も、2倍楽しめるはずである。
幸運ではなく実力の差
奇襲説では、信長は突然の豪雨に紛れて義元の本陣を急襲したといわれてきた。天も味方に付けた――と。だが、これも事実と異なっていたようだ。
中島砦と今川前軍の距離は、推定約3km。『信長公記』には信長が砦を発つと、「豪雨は味方の背中に降りかかった」とある。そして「空が晴れるのを見て」信長は戦闘を開始した。おそらく敵に向かって行軍中に、数分程度の集中豪雨が起きただけだった。雨音が一時的に軍勢の足音をかき消したなどの幸運はあったかもしれないが、必ずしも勝敗を決する重大要素とはいえない。
それよりも、一説には今川前軍には農民の雑兵が多く、一方の織田勢は、数は2000と少ないものの精鋭だったといわれ、勝因はむしろそこにあったかもしれない。今川の精鋭は後軍で義元を護衛し、前軍には配置されていなかった可能性はある。
実際、戦いが始まると今川前軍の雑兵たちを蹴散らされ、ジリジリと押し込まれていった。『信長公記』は、その後の戦況をこう記す。
未刻、つまり午後1〜3時、義元を囲んで守っていた旗本300騎は、刻々と少なくなった。義元の“断末魔”といえるリアルな状況である。そしてついに、毛利新介が義元を討った。

