桶狭間の戦いは“賭け”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第2話。織田信長(小栗旬)は、ついに織田伊勢守の居城・岩倉城を落城させ、尾張に覇を唱えることに。今後に不安を隠しきれない市(宮崎あおい)も登場、藤吉郎(池松壮亮)と共にいよいよ小一郎(仲野太賀)も侍となることを決心し、ようやく物語は最初の山場である、桶狭間の戦いに向けて動き出している。
桶狭間の戦いは、誰もが知っている日本史の戦い。今川の大軍に追い詰められた信長、家臣が決戦か降伏かをめぐり意見が分かれる中で信長は「敦盛」を舞って出陣。僅かな兵による奇襲で、見事に今川義元を討ち取り天下布武の第一歩を踏み出す!
これまで江戸時代以来、多くの作品に描かれてきたゆえに決断力に満ちた信長を天才として描くのは、ごく当たり前のこと。
でも実際はどうだったのか? 信長に「敦盛を舞う余裕」なんて本当にあったのだろうか?
桶狭間の本質は、「奇襲が成功したかどうか」ではない。信長が「賭けに出ない」選択肢を最初から持っていなかったことにある。
そもそも、信長が出陣を前に、敦盛を舞ったと記録しているのは信長旧臣の太田牛一が記した『信長公記』である。この記述はこうだ。
地方の小さな戦闘に過ぎなかった
『信長公記』の作者である太田は尾張春日井郡の出自で、官僚として信長に仕え、その後は丹羽長秀や秀吉と主人を変えている。信長の近くにいた人物が書いているために、史料として信頼性はあるものの、実はこの『信長公記』、桶狭間の記述には大きな謎がある。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを「天文21年(1552年)」と記しているのだ。しかも、この年号を3回も繰り返している。
単なる記憶違いか? それにしては不自然だ。
ともあれ、一次史料といえるものはこれしかない。
なんで、そんなに史料がないのか? それは、誰もこんな戦いが後世には重要なものと評価されるなんて考えなかったからだ。
現代の我々は桶狭間の戦いが、信長が天下布武に乗り出す第一歩として知っているが、当時は地方での小さな戦闘に過ぎなかった。有力大名である義元が討ち取られたことは衝撃的だが、戦いそのものを記録して残そうとする必然性すらなかったのだ。
そもそも、信長にとって義元との戦いは避けがたいものだった。
信秀の代には織田勢が一時西三河に侵攻するなど、両者の勢力圏は衝突していた。その最前線にあったのが、鳴海城(現愛知県名古屋市緑区鳴海町)だ。

