秀長の遺志空しく、羽柴家断絶

秀長が死去するのはこの直後、天正19(1591)年1月末である。幼い夫婦では「羽柴大和家」を運営できない。補佐し、導く役割が、慈雲院殿に重くのしかかった。同年2月には2人とともに上洛し、同月末には大政所(秀吉の母)と一緒に秀吉に拝謁した。

だが、秀保も文禄4(1595)年、子をもうけぬまま17歳で夭折し、「大和羽柴家」は断絶する。その先の次女の消息や没年は、明らかではない。

秀長が亡くなり、後継者として迎えた養子・秀保も没した後、慈雲院殿は郡山城を出たようだ。時期ははっきりしないが、秀吉の重臣・増田長盛が郡山を領有した文禄4(1595)年頃だったと見るのが妥当で、その後は京に移り住んだ。

慶長13(1608)年〜同15(1610)年には、京で平穏に過ごした記録がある。すでに60歳を超えていた。

没年は元和6(1620)年。72歳だった。寺社の歴史を記録した『東西歴覧記』に豊臣にゆかりある京都・善正寺の過去帳の一部が載っており、その中に記されている。

秀吉の妻・高台院(寧々)がそうだったように、かつての自分の家が大坂夏の陣(慶長20/1615年)で滅亡する様を、離れた京から見聞きしたかもしれない。

別妻との出会いは一度の過ちという逸話も

秀長には別妻べっさいもいた。別妻は「正妻以外の妻」という意味で、正妻が夫を補佐して政務や家事といった家宰かさいを担うのに対し、家の運営には携わらない〔『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟!』(NHK出版)より「知られざる秀長の妻の実像」黒田基樹〕。

秀長の別妻は法号・摂取院光秀尼せっしゅいんこうしゅうにという。和田裕弘が『大和名所図会』に所収された秀長との出会いの逸話を紹介している。

父は大和国の「秋篠の沙弥しゃみ」。光秀尼は早くから出家していたが秀長に見初められ、不犯の戒律を破って契りを結んでしまい、途方に暮れて伯母の元に身を寄せた。その一度の過ちで子を宿し生まれた娘が、毛利秀元(毛利元就の孫でのちの初代長府藩主)の妻となった――。

光秀尼が生んだ娘が毛利秀元に嫁ぐのは史料でも確認できるが、その他はいかにも「落胤」を強調した作り話という印象で、にわかには信じ難い。伝説というのは得てしてそういったものなのだろうが……。

ちなみに光秀尼はもう1人娘を生んでおり、秀長の養継子・秀保に嫁いだ娘(前述)は、実は正室・慈雲院ではなく光秀尼の娘だったという異説を和田裕弘が唱えている。

そもそも光秀尼は、出自についても曖昧な点が多く、父の「秋篠の沙弥」は秀長以前の郡山を治めていた筒井順慶の家臣「秋篠某」に婿入りした人物で、その娘が光秀尼という説もあった。

この辺りの込み入った説を『豊臣兄弟!』がどのように描くのか、注目したいところだ。

豊臣秀長像
豊臣秀長像(写真=奈良県大和郡山市春岳院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

参考文献
・和田裕弘『豊臣秀長』(中公新書、2025年)
・黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』(角川選書、2025年)
・柴裕之編著『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究14』(戎光祥出版、2024年)
・河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版、2025年)
・『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 豊臣兄弟!』(NHK出版、2026年)
・『大徳寺禅語録集成 第4巻』(法藏館、1989年)

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