病を乗り越え、人質になることも受け入れた

慈雲院殿は天正13(1585)年、秀長が四国を平定した恩賞として大和国(奈良県)を賜り、郡山城へ入城する時期から文献に登場し始める。

『多聞院日記』では「濃州女中」「大納言ノ御内」「大納言内公」などと記されている。濃州・大納言は秀長を指し、女中・御内・内公は妻のことだ。

『多聞院日記』文禄2(1593)年5月19日の章。「大納言の御内は息災、母は伝左衛門の内也」とある。(国立公文書館所蔵)
『多聞院日記』文禄2(1593)年5月19日の章。「大納言の御内は息災、母は伝左衛門の内也」とある(国立公文書館所蔵)
『多聞院日記』天正13(1585)年9月20日の章。「一昨日、濃州女中、郡山へ来られ了」と、正室・慈雲院殿が郡山城に入城したことを記す(国立公文書館所蔵)
『多聞院日記』天正13(1585)年9月20日の章。「一昨日、濃州女中、郡山へ来られ了」と、正室・慈雲院殿が郡山城に入城したことを記す(国立公文書館所蔵)

このうち「濃州女中」は初期のもので、日付は天正13(1585)年9月20日。「一昨日、濃州女中、郡山へ来られ了」とある。すでに9月3日に秀吉・秀長が大和・郡山城に入城しており、それに追随して秀長の妻もやって来たというわけだ。