病を乗り越え、人質になることも受け入れた
慈雲院殿は天正13(1585)年、秀長が四国を平定した恩賞として大和国(奈良県)を賜り、郡山城へ入城する時期から文献に登場し始める。
『多聞院日記』では「濃州女中」「大納言ノ御内」「大納言内公」などと記されている。濃州・大納言は秀長を指し、女中・御内・内公は妻のことだ。
このうち「濃州女中」は初期のもので、日付は天正13(1585)年9月20日。「一昨日、濃州女中、郡山へ来られ了」とある。すでに9月3日に秀吉・秀長が大和・郡山城に入城しており、それに追随して秀長の妻もやって来たというわけだ。
結婚したのが永禄9(1566)年という説(前述)に則れば、郡山入城の時点ですでに20年近く、苦楽をともにしてきた夫婦の姿がうかがえる。特に秀吉が織田軍の中国方面司令官となってからは、兄に従って各地を転戦したため、留守を守る心労は並大抵ではなかったろう。
郡山に入った秀長は紀伊・和泉・大和の3カ国を領有し、合わせて実質約73万石を有することになった。この三国は寺社勢力が強大なため統治しやすいとはいい難い土地だった。郡山入りの1カ月前には紀伊で検地も実施し、反発した農民が一揆を起こすなど、一筋縄には行かなかった。
慈雲院殿も懸命に夫を支えたろうが、翌年の天正14(1586)年9月には病に伏している。幸い無事に回復したものの、天正17(1589)年の小田原征伐の際は、特別扱いできないのを理由に人質として在京するよう秀吉に命じられるなど、困難は続いたようだ。
13歳と5歳を結ばせた秀長の焦り
慈雲院殿と秀長の間に生まれたと考えられる嫡子が、与一郎だ。「羽柴(木下)与一郎」の名で伝わるこの長男は江戸時代に入ってからの文献にその名があるだけで、一次史料では確認できず、実在や生誕日はあやふやである。
和田裕弘は存在を「疑問」と述べ、黒田基樹は天正10(1582)年に早世した可能性を指摘する。いずれにせよ、息子のいない(または失った)秀長は、丹羽長秀の息子・千丸を養子に迎えた(『郡山城主記』など)。
ところが、秀吉・秀長がともに、羽柴の血を引いた者を後継にしたいと思い直したのか、長姉・日秀尼の三男・御虎に白羽の矢を立てる。御虎がのちの豊臣秀保である。そして千丸は藤堂高虎の養子となり、藤堂高吉と名を改めた。
娘も2人いたとみられている。1人は「御末様」と呼ばれた女児で、毛利家から贈られた進物にその名があるが、早世した可能性が高いらしい。
そこで養継子として迎えた秀保と次女を結婚させ、御家の存続をはかったとみられる。秀保と次女の婚儀は天正19(1591)年、健康を害していた秀長の病状が悪化したため、急いで挙行されたようだ(『国史肖像集成第六輯』目黒書店)。
秀保13歳、次女はまだ5歳ほどだった。子をつくるには早すぎた(なお秀保と結婚した次女については異説もあり、詳しくは後述)。


