病を乗り越え、人質になることも受け入れた
慈雲院殿は天正13(1585)年、秀長が四国を平定した恩賞として大和国(奈良県)を賜り、郡山城へ入城する時期から文献に登場し始める。
『多聞院日記』では「濃州女中」「大納言ノ御内」「大納言内公」などと記されている。濃州・大納言は秀長を指し、女中・御内・内公は妻のことだ。
このうち「濃州女中」は初期のもので、日付は天正13(1585)年9月20日。「一昨日、濃州女中、郡山へ来られ了」とある。すでに9月3日に秀吉・秀長が大和・郡山城に入城しており、それに追随して秀長の妻もやって来たというわけだ。
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