長嶋の登場でサードが人気ポジションに
藤田平と同じ1947(昭和22年)12月に東京都大田区で生まれた大矢明彦は、長嶋が巨人に入団した時は小学3年生だった。
「東京に住んでいても、東京六大学時代の長嶋さんのことは覚えていない。立教大学の時よりもやっぱり巨人に入ってからのインパクトが強かった。
うちの姉と父が野球好きで、球場によく連れていってもらっていた。僕は東京育ちだから巨人に愛着があるし、特別なチームだと思っていたよね。野球を見るなら巨人、パ・リーグの試合を見ることは少なかった」
その時に球場で見た長嶋の姿が大矢の記憶に残っている。
「とにかく華麗で、派手でカッコよかった。魅せるプレーと言ったらいいのかな、『これがプロなんだ』と思わせる選手だったね。僕は当時、野球少年で、長嶋さんのデビュー前はみんながピッチャーをやりたがっていたけど、そのあとはサードが人気のポジションになった」
中学から早稲田実業(東京)に通った大矢は当然、野球部に入った。
「野球部に入る時に250人くらいがテストを受けた。ポジション別でいうとピッチャーが120人くらいで一番人数が多くて、その次がサードで80人くらい。あれは長嶋さんの影響だったと思う」
子どもにもわかりやすいカッコよさが長嶋にはあった。
野球をよく知らない人さえ魅了する
「長嶋さんの守備は洗練されていたね。これはかなりあとになってから思ったことだけど、サードとファーストはスタンドのお客さんから一番近いところにいるから、ファンを呼ぶという意味では大事な役割をしているよね。昔の球場はスタンドまでの距離が近かったし。
僕はキャッチャーだったから、長嶋さんの守備を見て分析するようなことはなかったけど、プロ野球選手としての立ち居振る舞いや動きはすごいなと思っていた」
昭和のプロ野球には守備の名手がたくさんいたが、長嶋には独特の華があった。
「吉田義男さんや広岡達朗さんなど、難しい打球をきっちり捕ってアウトにする玄人好みの人が多かったよね。長嶋さんの守備には、野球をよく知らない人さえ魅了するものがあって、『ああ、カッコいいな』と思わせてしまう。アウトにするということを考えれば、投げたあとの右手のひらひらとかは余計なことなのかもしれないけど、野球ファンはそこにたまらない魅力を感じたんだろう」
高校野球を代表する名門である早稲田実業で野球に打ち込んだものの、大矢は甲子園に出場することはできなかった。

