初の日本人メジャーリーガーが体感したレベルの違い
1964(昭和39)年、村上(※)は南海のチームメイトふたりと一緒にアメリカに渡ることになった。
※村上雅則:1963年に南海へ入団し、翌年にサンフランシスコ・ジャイアンツの下部組織である1A、フレズノ所属した。その後メジャー昇格し、日本人初のメジャーリーガーとなった。
「将来を見越しての“留学”という意味合いだった。プロ入りする前から『アメリカに行かせてやる』という話だったから。はじめは3カ月だけという予定で、6月か7月には帰国するつもりでお土産もたくさん買いこんだんだけど、いつまで経っても『日本に帰ってこい』と言われなかった。当時、サンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウト担当にキャピー原田という人がいて、彼が『このままアメリカにいろ』と言う」
村上はナショナル・リーグのジャイアンツの下部組織である1A(シングルA)フレズノに所属することになった。
「のちのちAAAの監督に『日本から来た時に、おまえにはAAAの実力があったけど所属するチームは日系人の多い町のほうがいいだろうという判断になった』と言われた。そんな事情を知らないまま、フレズノでプレーしたよ」
実際に戦ってみて、日本とアメリカのレベルの違いを感じた。
「日本の二軍とアメリカの1Aが同じくらいじゃなかったかな。俺は1年目に106イニングを投げて、159個の三振を取ったんだよね。あの頃に投げていたのはストレートとカーブぐらい。あとはときどき、シュート系のボールを投げるくらいで。チェンジアップを教わったんだけど、うまく投げられなかった」
全く違った食事の内容
言葉の壁、慣れない食事などさまざまな障害に悩まされることはなかった。
「あの頃は、日本のプロ野球で出される食事はさびしいものだった。キャンプでも、朝食はみそ汁にご飯、おかずはメザシに卵焼きかゆで卵と漬物。ご飯を2、3杯おかわりしてお腹をふくらませるという感じだったから。夜もたいしたものは出てこなかった。それに比べれば、アメリカの食事は恵まれていたよ。
初めてオレンジジュースを飲んだ時には驚いた。100%のオレンジジュースなんか、日本ではなかなか飲めなかったじゃない? 一杯飲んですぐに『もう一杯くれ』って言ったもんね。ベーコンもいくらでも食べられるし、卵焼きをふたつでもみっつでも好みに合わせて焼いてくれた。アメリカのパンは本当にうまかったんだから」
アメリカですぐに“マッシー”と呼ばれるようになった村上は、8チームで構成されたカリフォルニア・リーグで新人王、リリーフ投手としてベストナインに選ばれた。

