「箱根駅伝」で活躍する留学生ランナーの多くはケニア人だ。なぜなのか。ノンフィクションライターの泉秀一氏は「ケニアがマラソンを含めた“中長距離大国”になった明確な理由がある」という――。

※本稿は、泉秀一『アフリカから来たランナーたち 箱根駅伝のケニア人留学生』(文春新書)の一部を再編集したものです。

ケニアが「中長距離大国」になるまで

今、ケニアが陸上の中長距離大国であることを疑う者はいないだろう。2025年に東京で開催された世界陸上でも、ケニア勢は大活躍だった。男子こそ金メダルは800メートルのエマニュアル・ワニョンイのみにとどまったが、女子は800メートル、1500メートル、5000メートル、一万メートル、3000メートル障害、マラソンと、中長距離全種目の金メダルを独占した。

しかし、ではケニアがいかにして中長距離大国になったかという問いに対して、明確に答えられる人は少ないのではないだろうか。

特に今の40代以下の世代は、物心ついた時から五輪や世界陸上でケニア人ランナーが活躍していたし、駅伝で新記録を樹立したりごぼう抜きしたりする姿を当たり前に見てきた。そもそもの記憶が「ケニア人ランナーは速いもの」というところからスタートしているから、なぜ強いのかなど考える機会がない人がほとんどだろう。

実際のところ、ケニアが中長距離大国として認識され始めたのは、1980~90年代からだ。意外に思われるかもしれないが、それまでは欧米や日本、韓国の選手が上位を占めていた。

例外として、1968年のメキシコシティ五輪の男子1500メートルでキプチョゲ・ケイノが、一万メートルでナフタリ・テムがそれぞれ金メダルを獲得している。特にケイノは、1972年のミュンヘン五輪でも3000メートル障害で金メダル、1500メートルで銀メダルを獲得する活躍で、ケニア選手が国際舞台で活躍する先駆けとなった伝説的なランナーである。

陸上大国・ケニアを勃興させた外国人

しかし、それ以降は続かなかった。ある時期、ある国や地域から偉大なアスリートが輩出されるケースはよくあるが、育成システムが整備されていないと後が続かず国のお家芸にはならない。そもそも当時のケニアは、1963年の英国からの独立から数年しか経っていない建国の黎明期である。あくまで限られた個人の才能が偶発的に国際舞台で輝いたにすぎなかった。

それからいかにして中長距離大国になったのか。現在までのステップを整理すると、大きく3つの時期に分けられる。

最初にケニアの陸上界に刺激をもたらしたのは外国人だった。

1976年、コルム・オコネルという宣教師が、祖国のアイルランドからケニアの高地にあるイテンという町に渡ったのがきっかけだ。宣教師である彼は、のちに修道士を意味するブラザーを名前の前につけたブラザー・コルムという呼称で世界的な陸上コーチとして知られるようになる。

セント・パトリック高校に赴任し地理の科目を担当していたコルムは、前任者が母国に帰国するという理由から、陸上部の指導を引き継ぐことになった。この時、コルムには陸上に関する知識がなかった。しかし、独自の指導法でトップ選手を育成していく。

セント・パトリック高の出身者には男子800メートルの世界記録保持者であるルディシャを筆頭に、五輪メダリストがずらりと並んでいる。もしケニアの陸上名門校を挙げるとすれば、それはセント・パトリック高なのである。

箱根駅伝/トップでたすきをつなぐビンセント
写真=時事通信フォト
平塚中継所をトップでたすきをつなぐ東京国際大3区のビンセント・イエゴン(左は東京国際大4区・佐伯涼)=2020年1月2日、神奈川県平塚市