母親や妹を養うため、キャリアを模索

鎭子は女学校を卒業すると、家計を支えるため日本興業銀行に入行する。当時は、女学校卒業後は嫁ぐのが当たり前だった時代だ。しかし、興銀では調査月報の編集を任され、その経験が後に編集者として大いに生かされることとなる。

その一方で、学びたい意欲に取りつかれた鎭子は興銀を3年で辞め、日本女子大学に進学。ところが、体調を崩し、11月に退学する。それでも鎭子はあきらめなかった。

再び活字の仕事をしたいと思い始めていた頃、新聞の求人欄で見つけた日本読書新聞社に入社。編集長の田所太郎や、後に作家となる柴田錬三郎と共に働くが、その年12月に真珠湾攻撃が起こり、日本は太平洋戦争に突入する。しかし、物資が不足する戦時中も、鎭子は砂糖や汽車の切符など、編集部員に頼まれるとあらゆるものを入手し、柴田に後に「仕事はもちろん、日常茶飯事にこれほど重宝な人間は、またとあるまいと思われる」と記されるほどだった。そこには、鎭子が知らない人にも頼み込み、徐々に打ち解け、協力して集めてもらった背景があったようだ(『暮しの手帖別冊 しずこさん「暮しの手帖」を創った大橋鎭子』)。

1945年3月10日、東京大空襲が発生。幸い大橋家には被害がなかったが、空襲に備えて広大な空き地を作るために家が取り壊され、悲しみにくれる中、それでも鎭子は防空壕の中ですでに戦後を見据え、家族のために自分は何ができるのかを考えていた。

「年が近い女性になら読んでもらえる」

最初に考えたのは、父方の祖父が営んでいた材木商。空襲で焼け出された人達には家が必要になると考えたためだが、これは女の仕事ではないと母に反対され、次に洋裁店や、当時流行りの喫茶店なども検討する。しかし、どちらも家の前を通る人だけを相手にする小さな商いであることや、競合の多さで断念し、最後に思いついたのが、「知恵を売る」仕事=本や雑誌を作って出版することだった。そこにはこんな思いがあった。

「わたしは戦時中の女学生でしたから、あまり勉強もしていなくて、何も知りません。ですから、わたしの知らないことや、知りたいことを調べて、それを出版したら、わたしの歳より、上へ5年、下へ5年、合わせて10年の世代の人たちが読んでくださると思います。そんな女の人たちのための出版をやりたいと思います」(『しずこさん』暮しの手帖社)

敗戦後に日本読書新聞は復刊されたものの、鎭子は自分で事業を始めることを考え、編集長の田所に相談すると、田所が出版に力のある人物を紹介してくれた。それが花森安治である。

高畑充希オフィシャルInstagramより