鎭子のメンターとなった名編集者・花森安治

ドラマでは花森をモデルとする花山伊佐次(唐沢寿明)は、常子から編集長就任を頼まれ、頑なに断る様が描かれていた。花山は自身が作った標語が原因で多くの戦死者を出したという自責で断筆を決めていたためだ。

一方、史実では、花森は鎭子に「女の人のための雑誌を作りたい」と相談されたとき、その場ですぐ快諾している。理由は、鎭子の親孝行の思いに心打たれたことが1つ。新聞在籍時に鎭子が川端康成の原稿をとってきた現場に、たまたま花森が居合わせたこともあった。しかし、何より花森には心に決めた強い思いがあった。花森は「ひとつ約束してほしいこと」として、明確な条件を打ち出している。

「もう二度とこんな恐ろしい戦争をしないような世の中にしていくためのものを作りたいということだ。戦争は恐ろしい。なんでもない人たちを巻きこんで、末は死にまで追い込んでしまう。戦争を反対しなくてはいけない」(『「暮しの手帖」とわたし』)

花森は大政翼賛会の宣伝部にいた経験があり、自らが戦争動員の装置の一部だったことを痛烈に自覚していた。「欲しがりません 勝つまでは」を一般応募作品から選定・採用したのも花森だった。『花森安治の仕事』(酒井寛、暮しの手帖社)では、大橋の依頼を受けたときの花森の返答が、こう綴られている。

「こんどの戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起こらなかったと思う。だから、君の仕事に、ぼくは協力しよう」
『暮しの手帖』創刊者の花森安治(左)と大橋鎭子
『暮しの手帖』創刊者の花森安治(左)と大橋鎭子(画像=雑誌『暮しの手帖』プレスリリースより)

着物を「直線裁ち」する洋服を提案

ドラマの表現は比較的マイルドで、「反戦」の思想はあまり描かれていないが、花森にとっては『暮しの手帖』は戦争への贖罪の雑誌だったのだ。

1946年、鎭子は花森、妹の晴子・芳子、横山啓一とともに銀座に「衣装研究所」を設立。鎭子が社長に、花森が編集長になり、『スタイルブック』を刊行する。戦後すぐは「食」も「住」も手に入らない中、「衣」だけはタンスに昔からの着物があるだろうと考えたためだ。

東京帝国大学で美学を専攻した花森がデザインを手掛け、鎭子たち三姉妹と母・久子が着物をほどいて「直線裁ち」の洋服を作り、着て、花森がその姿を写生してスタイル画を描き、文章を書き、表紙も型紙も全て作る。この家庭内の手作りのような『スタイルブック』は、売れに売れた。1948年にはそこに「食」「住」を加え、新しい雑誌『美しい暮しの手帖』(5年後に『暮しの手帖』と改題)が誕生する。当時の婦人雑誌は、スターが誌面を飾るものが多かった中、「ふつうの人々の暮らし」に寄り添う同誌は、まだまだ戦争の傷跡が生々しい時代の多くの女性達に受け入れられていった。