山田GMは明大付属明治高卒業後、プロ野球で10年間プレーした。引退後下着メーカーでサラリーマン生活を送り、41歳のとき、日本ハムにスカウトとして入団した。「人物ウオッチングが趣味、スカウトは天職」という。

「僕の中では栗山(英樹監督)さんなら、大谷をしっかり育ててくれるだろうと考えたのです。(獲得の)確信はゼロでした。もし交渉に失敗し、会社からクビと言われれば、責任とってやめようと思っていました」

少し古い話になるけれど、やはり大谷選手との入団交渉の舞台裏には興味がある。ビジネス界においても有能な人材獲得策のよき手本となるからだ。大谷選手の翻意の理由を簡単に言えば、山田GMの「決断力」と、大渕隆スカウトディレクター(SD)の「交渉術」、栗山監督の「情熱」だった。

さらに綿密な準備と周囲への配慮だろう。ポイントだけを振り返れば、山田GMはドラフト会議の2日前、大谷選手をドラフト1位指名することを公表した。なぜだったのか。

「ドラフト当日にいきなり指名したら、花巻東高の(佐々木洋)監督さんに迷惑をかけると思ったのです。たぶん世間の人からは監督と日本ハムの間で話ができていると思われる。だから、それはやめよう。誰かを苦しめることはいいことではない。正々堂々といって、他のチームもくるなら競争しましょう、という考えでした」

いわゆるコンプライアンス、リスクマネジメントか。結果、昨年10月25日のドラフト会議、日本ハムが単独1位指名で大谷選手の交渉権を獲得した。「18歳の夢をつぶすのか」と一部メディアの反発をくらった。

だが日本ハムは逆に世論の批判を活用し、交渉戦略を組み立てた。「実は」と山田GMが明かす。「本人の(大リーグへの)夢を大事にしろ、と言われるのなら、では一緒に夢をかなえていこうと考えたのです」。

そこで大渕SDが、26ページにおよぶ「大谷翔平君夢への道しるべ」と題されたパワーポイントの資料を作ってきた。同SDは早大の野球部OBでプロ野球の経験はない。卒業後、日本IBMの営業から高校教諭を経て、ファイターズのスカウトとなった。だからだろう、パソコンを駆使した資料作りには長けていた。