「僕は心が折れそうな思いで、探査機を何とか生き返らそうとしていたので、状況を聞かれるとつらいわけです。でも彼らは何も聞かなかった。普段通りに講習を受けて、黙ったまま解散してくれたんです。本当にありがたかったですね」

同じく久保田教授はいま、「はやぶさ」プロジェクトに費やした歳月の長さを思う。このプロジェクトに彼が参加し始めたのは93年のことだった。帰還までにかかった7年間は彼にとって、その長い歳月の中の一部分に過ぎないという面もあった。

「最初は10人ほどの若手が集まって提案書を作ったのが始まりだったんです」

当時30代だった初期のメンバーは、プロジェクトの終盤には50歳前後になっていた。

その過程で彼らのもとには多くの若手研究者が集まり、育っていった。JAXAの中だけではない。機体の開発に関わった大手・中小メーカーでも同じように、中心的な研究者と若手がお互いにサポートし合いながら仕事を進めてきたという。

いわば長年に渡った「はやぶさ」プロジェクトは、若手への技術継承の現場であり、世代交代の現場でもあり続けたのだった。「世界初」を合言葉に横の連携を行う研究グループの中では、それぞれ世代間の縦方向の継承もまた同時に行われてきた。チームの主要メンバーが懸命に「はやぶさ」を帰還させようとしていた時、その後ろでは多くの若手研究者が彼らの奮闘を目に焼き付けていたのだ。

そうして網の目のように結束したチームが成功に導いた「はやぶさ」プロジェクトは、さらに14年度に打ち上げ予定の「はやぶさ2」プロジェクトへ受け継がれることになっている。

「『はやぶさ2』の立ち上げに関わっていると、それが世代を超えた計画であることを実感するんです」と吉川准教授は気を引き締める。

「いま中学生や高校生である若い世代が、いずれプロジェクトの中心で活躍することになる。最先端の技術革新というものは、そのような様々な連なりを通してしか生み出されないんですね。『はやぶさ』が辿った長い歳月は、そのことの重みを表しているように思うんです」

宇宙輸送工学研究系教授 國中 均
宇宙輸送工学研究系教授。1988年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、宇宙科学研究所(現JAXA)に着任。専門は電気推進・プラズマ工学でイオンエンジン(写真)を担当。

宇宙情報・エネルギー工学研究系准教授 吉川 真
宇宙情報・エネルギー工学研究系准教授。1989年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。通信総合研究所を経て、98年宇宙科学研究所へ。現在に至る。写真は小惑星イトカワの模型。

宇宙探査工学研究系教授 久保田 孝
宇宙探査工学研究系教授。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。富士通研究所を経て、1993年宇宙科学研究所へ。自律航法誘導制御と探査ロボット「ミネルバ」(写真)を担当。
(門間新弥=撮影(人物) JAXA=画像提供(はやぶさ))
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