子供の頃に熱中したスポーツは、人格形成に大きな影響を与えているのではないか。集団競技か、個人競技か。ポジション、プレースタイル、ライバルの有無……。ノンフィクション作家の田崎健太氏は、そんな仮説を立て、「SID(スポーツ・アイデンティティ)」という概念を提唱している。この連載では田崎氏の豊富な取材経験から、SIDの存在を考察していく。第8回は「水泳」について——。
現役引退を決め、記者会見後に平井伯昌コーチ(左)と握手する競泳男子平泳ぎの北島康介(日本コカ・コーラ)=2016年4月10日、東京辰巳国際水泳場
写真=時事通信フォト
現役引退を決め、記者会見後に平井伯昌コーチ(左)と握手する競泳男子平泳ぎの北島康介(日本コカ・コーラ)=2016年4月10日、東京辰巳国際水泳場

違うレーンの「気配を感じ」ながら泳ぐ

水泳は、個の強さが求められる競技だ。

東海大学水泳部監督の平井伯昌によると、選手たちは違うレーンにいる選手たちの「気配を感じ」ながら泳いでいるのだという。レースの間、彼ら、彼女たちは水で遮断された1人の世界にいる。水中に入れば誰の助けも借りることはできない。

「何が敵かというと、自分です。一緒に泳ぐ選手に乱されてはならない。相手がどうあろうと自分がいいタイムを出せば勝つことができる。しかし、そんなに簡単にはいかないものです。練習と同じように思い通りに泳ぐことは難しい」

2004年のアテネオリンピックを例にあげた。開会式の日、日本代表のコーチとして帯同していた平井は、自分が担当する3人の選手を集めてミーティングを行っている。その中の1人が北島康介だ。

「康介に予選から思いきりいけと言ったんです。そうしたら康介は、オリンピックっていうのは決勝が勝負じゃないんですかって聞いてきた」

平井の頭にあったのは、アメリカ人のブレンダン・ハンセンをどう破るか、だった。直前に行われたアメリカ代表選考会で、ハンセンは、北島の保持していた100メートル平泳ぎ、200メートル平泳ぎの世界記録を更新していた。

「あのとき、康介の調子は8割ぐらいだったんです。相手を崩さないと勝てない。予選、準決勝、決勝の3つで勝負するしかない。康介は分かりました、と」

100メートル平泳ぎの予選で、北島は1分0秒03を出した。これはオリンピック新記録だった。

「準決勝はブレンダン・ハンセンの方が康介よりもタイムが少し良かった。ただ、オリンピック選考会で世界新記録を出したときと比較すると、前半でワンストローク多いんです。ちょっと力んでいた。予選で記録を出した康介のことを相当意識している。綻びが出はじめている、と思ったんです」

ハンセンは揺さぶりに弱いと気がついたのは、2003年にバルセロナで行われた世界水泳選手権でのことだった。