子供の頃に熱中したスポーツは、人格形成に大きな影響を与えているのではないか。集団競技か、個人競技か。ポジション、プレースタイル、ライバルの有無……。ノンフィクション作家の田崎健太氏は、そんな仮説を立て、「SID(スポーツ・アイデンティティ)」という概念を提唱している。この連載では田崎氏の豊富な取材経験から、SIDの存在を考察していく。第2回は「野球の打者」について――。
ボールの軌道の記憶を多数持った超人
プロの打者とは超人である――。
マウンドに置かれたピッチャープレートと打者の目の前にあるホームプレートの距離は18.44メートル。投手が150キロ以上の速球を投げたとき、ピッチャープレートからホームベースまでの到達時間は単純計算で0.45秒を切る。
打者がバットを振るのに掛かる時間は約0.2秒、脳が躯に命令を下して実際に動くまでの神経反応は約0.3秒弱と言われている。この2つを足すと0.5秒弱。つまり、理論上は脳が球が来ると思ってからバットを振っても間に合わない。打てないということになる。
それでも打者は150キロ以上の球を打ち返している。脳科学者の林成之はこれは「イメージ記憶」によるものだと説明している。
〈プロのバッターが豪速球を打ち返すとき、じつはボールを見ている脳と同時に、ボールを見ていない脳も使っているのです。(中略)バッターはピッチャーが投球動作をしている段階から、ボールが手元にくるまでの起動をイメージ記憶をもとに予測して、バットを振るのです〉(『〈勝負脳〉の鍛え方』)
林によると、優れた打者は、ボールの軌道の記憶を多数持っており、投げられた瞬間にその過去の軌道を分析してバットを振っているのだという。