家臣たちに「道の真ん中ではなく端を歩け」

いずれにせよ将軍の寵臣ということで、吉保は絶大な権力を持つようになった。

たとえば肥後一国を領する熊本藩主・細川綱利は、自筆の書状を吉保本人ではなく、家老の藪田重守に送って我が子が将軍・綱吉にお目見えできるよう助力を頼んでいる。

国主たる者が一大名の陪臣に直筆の手紙を記して頼み事をするほど、その力は大きかったのだ。こうした依頼は引きも切らず、柳沢邸には進物をたずさえた諸藩の士が絶えずやってきた。

しかし、吉保は思い上がらなかった。処世術として「慎み」を大切にした。

たとえば重臣の藪田重守に対し「家中の者たちが、風儀がよく礼儀正しいように、おまえたちが指導しなくてはいけない。家来の風俗を見れば、主人の心根もわかってしまうものなのだ」と訓示を与えている。

さらに「もっとも大切にすべきことは慎みの心だ。家臣ががさつな振る舞いをせぬようよく指導せよ。柳沢の家来は慎みがないと陰でいわれているぞ。だから道を歩くときも、真ん中ではなく端を歩かせろ」と戒めた。

偉くなっても礼儀と慎みを忘れなかった

吉保の側室であった町子は、『松蔭日記』のなかで「吉保は、柳沢家の者は主君の権力をかさに人をバカにしたり、無礼なふるまいをしてはいけない。世間が吉保の威光を恐れているから、自分の思ったとおりにしてやろうとするのは愚かな者のすることであると述べた」と語っている。

自分に許可なく付け届けを受け取った家臣を国元に返したという逸話も残る。

『柳沢家秘蔵実記』は、幕府の奥医師・薬師寺宗仙院の次の証言を記している。

「吉保様は今古例がないほど将軍と昵懇だったが、ほかの側近とは異なり、威厳があってもいばらなかった。深い思いやりがあり、人に情けをかける細やかな方であった」

吉保自身も江戸城内でなるべく目立たぬように服装を地味にしていた。また膝をひらいてくつろいだり、酒を飲んだりせず、礼儀正しさを保っていた。あえて人びとに警戒の念を抱かせぬよう気をつけていたわけで、驚くべき慎重さだといえる。

絶大な権力は将軍・綱吉あってのものであり、それが永続しないことを吉保はよく知っていた。だからこそ柳沢家の長い繁栄を願い、慎みを大切にし、謙虚になろうと努力したのだ。