第1回会議は、30分も要していない。やるべきことの優先順位が決まり、小林が統括する生産と物流においては、予算の大まかな枠組みが決まった。
これにより、小林はその後の細かな了承を桐山にとる必要がなくなり、部下に権限を委譲しやすくなった。
被災地への緊急支援物資を送ることは、既定路線だった。第1回会議でも、送るかどうかの議論はなく、どこに、素早く、どのように送るかが議論され、実行されていった。
やがて、生産・物流部門のBCPチームが「コントロール・ルーム(緊急対策室)」という名称で立ち上がる。
支援物資はこのコントロール・ルームが担当する。小林は部下たちに言った。
「多少のエラーはかまわない。また、いちいち俺に報告しなくてもいい。おまえたちは、現場で判断して思い切ってやれ。オーナーシップをもって」
ERの責任者である辻本は、その瞬間は東京オフィスの部下と電話をしていた。
「いま、地震が起きてます。すごい揺れです! とにかく切ります、とてつもなく大きな地震ですよ」
電話が切れて辻本は周囲に向かい、「東京は地震が起きているわ」と話し始めたとき、本社ビルは揺れ始めた。30階にいたため、ゆったりとした、振幅が大きい揺れだった。辻本は確信した。「震源地は東日本だ。あのときとは違う」と。
29階に下りて、5人のBCPチームに入った辻本の役割は明確だった。社長をはじめ主要部門のマネジメントとの連絡と連携。米国シンシナティ本社との情報共有。グローバル本社からいつでも支援を受けられる体制をつくる必要があったからだ。そして何より、社外に対しての情報発信および行政などとの渉外活動は重要だった。