3.11からの2カ月間、ビールの仕込みをストップせざるをえなかったサッポロビール仙台工場。自ら被災しながら地域のために炊き出しをし、工場復興の作業を地道に積み重ねた技術屋たちの奮闘を取材した。

未知の状況で咄嗟につくった4人組制

「4人で1チームとする。全部で7チームを編成したら、すぐに被災状況の確認に走れ」

サッポロビール 仙台工場長<strong> 仲本滋哉</strong>●1961年、静岡県生まれ。大阪大学工学部卒業後、同社入社。大阪から北海道まで、全国の工場や研究所にて醸造畑を歩む。2009年より現職。
サッポロビール 仙台工場長
仲本滋哉
1961年、静岡県生まれ。大阪大学工学部卒業後、同社入社。大阪から北海道まで、全国の工場や研究所にて醸造畑を歩む。2009年より現職。

こう指示を発したとき、仲本滋哉は“未知の段階”に入ったと認識した。マニュアルなどはなく、これから先は工場長の自分が、多くを即断し、部下たちを動かしていかなければならない。

大きくて長く続いた揺れから30分が経過していた。宮城県名取市にあるサッポロビール仙台工場は、今年で竣工40周年を迎える同社で最も古い工場だ。3月11日、外部企業を含めて同工場に勤務していたのは約150人。毎年、春と秋に実施していた防災訓練通りに、150人は行動する。 工事をしていて高所から転落した外部業者の社員を、救護班が担架で救出。救急車に乗せて送り出したのをはじめ、地震発生から30分以内に、すべての関係者の安否を確認していった。全員が、まずは正門近くのグラウンドに避難する。グラウンドと構内道路を挟んだ建屋にある大会議室には対策本部が設けられ、その中心には仲本がいた。

訓練ならばここで解散だった。「前回よりも少し速くできた。また、次も頑張ろう」と訓示して終わる。しかし、今回は訓練ではなく、滅多にない実戦である。粉雪が舞い、気温は下がり始めていた。

7つのチームは、停電した工場内の各現場を点検して、逃げ遅れた人の有無、火災発生やガスおよび液漏れの確認、さらには危険個所を特定し被害状況を把握するのが役割だった。

訓練にはない未知の段階に突入して、工場長の仲本が最初に決めたのが1チーム4人の編成だった。309年前、大石内蔵助は3人1組をチームとした。しかしあれは、狭い吉良邸への攻撃的な布陣だ。今回は、広大な工場の各工程を、確認しなければならない。

やはり、3人では少なすぎる。5人では、一目で全員を見ることができず、多すぎる。4人ならば、誰かが負傷したとき2人が負傷者を担ぎ、1人が連絡に走れる。そう考えた仲本の咄嗟の判断だった。

「暗いなかでの確認作業だ。何があろうと、30分経過したら、ここに帰ってくるんだ」

7チームをこう言って送り出す。携帯電話のワンセグ放送から、仙台空港にまで津波が押し寄せたニュースを知る。相変わらず余震は続く。ガソリン式の発電機を稼働させ、非常用の衛星通信電話を利用できる状況にした。

夜が近づくに従い、近隣の人たちが工場に集まってきた。発電機が動き、灯りが点ると人の数はさらに増えていった。仙台工場は、行政が指定した避難場所ではない。しかし、この地で40年も操業しているため、地域社会に溶け込んでいた。集まった人々を工場見学者用のゲストルームに誘導するよう、仲本は部下に指示した。

飲料や菓子類、防寒具を提供していく。すべて仲本の独断であるが、迅速さが求められた。

約200人がゲストルームで夜を過ごす。何しろ、照明が点いているのは周辺では仙台工場だけなのだ。