組織が大きなダメージを受けたとき、リーダーは、ヒト、モノ、カネ、モチベーションをどのように建て直したらよいのだろうか。岩手県釜石市のラグビークラブチーム「釜石シーウェイブス」の震災後の闘いを検証すると、一つのモデルが浮かび上がってくる。

非常時を打開するリーダーの判断力

東日本大震災で深刻な被害を受けた岩手県釜石市にとって、ラグビーのクラブチーム「釜石シーウェイブス(SW)」は“復興の灯火”である。

真夏のとある日。地元の松倉グラウンドで、釜石SWがトップリーグのクボタ・スピアーズとプレシーズンマッチを戦った。大漁旗が揺れるスタンドの隅っこで、クラブの事務局長、増田久士がしみじみとつぶやいた。

「“ひたすら”“ひたむきに”で、やっとここまできました。こんなときだからこそ、僕らは地域のコミュニティーに何かを還元しないといけない。ラグビーが強くなったら、釜石は元気になると思うんです」

釜石といえば、「鉄と魚とラグビー」の街である。かつては「北の鉄人」と呼ばれた新日鉄釜石ラグビー部が七年連続日本一に輝いた。大漁旗をうち振り、市民たちは偉業を祝いあった。

新日鉄合理化の影響を受け、2001年、チームは地域密着のクラブチームに生まれ変わった。それが釜石SWだ。トップリーグ下部のトップイーストというリーグで苦闘しているけれど、どっこい街とともに生きているのだ。

震災の日。増田はJR釜石駅前のシープラザ釜石という建物の2階の事務局にいた。揺れがひどく、灰色のスチールデスクの下に飛び込んだ。左胸のポケットに収めたメガネが何度も揺れで飛び出してきた。

「これじゃメガネを外している意味がないナ、と思いながら、このまま死ぬのかな、なんて考えていました」

津波被害を免れたスタッフ、選手たちは、ラグビー場そばの釜石SWのクラブハウスに向かった。チームの最優先事、まずは選手と、その家族の安否確認である。選手全員の無事を確認した後、クラブハウスを選手の家族の避難拠点とし、情報を収集していった。

電気、ガスは止まり、通信機能もぜんぶ、遮断されていた。情報は口伝てに頼るしかない。

「うちの場合よかったのは、クラブハウスがあったことです。あそこに行けば、誰かいるんじゃないか、と言うことで、みんなが集まってきた。そこにアンテナをはる。冷静に情報を集め、みんなで共有しました」