飲み物、食料も持ち寄った。クラブハウスには家族を含め、50~60人が集まった。非常時ゆえ、3人の生活リーダーを決め、役割分担をした。集団のほうが「サバイバル効率」がよくなる。陣頭指揮は元自衛隊ラガーの主務、仲上太一がとることになった。

仲上は言う。「大事なことは無理をしないことでした。長丁場の戦いのときには疲れたら負けですから」と。

じつは震災発生の日は昨季主将のピタ・アラティニの35歳の誕生日だった。夜、クラブハウス前の広場でドラム缶のたき火を囲み、何人かは深夜まで酒を酌み交わした。「不謹慎な」とあとで近所から苦情をもらった。

でも逆境のときこそ、明るさを失ってはいけないのでは、と増田は言う。

「みんなで一緒に騒いだほうが安心できる場合もあります。寒いから、お酒を飲んだほうが風邪もひかない。医学的でないかもしれないけれど、楽しんでいると病気への免疫力が上がるような気がします」

チームとして共同生活に統制はかけなかった。それぞれが助け合って、できることはやる。分担作業をできない人がいても、強制することはしない。余裕を持った大人たちの中に子どもたちがいれば、自然と余裕も笑いも出るだろう。そう考えた。

3、4日で電気、ガスが復旧していく。1週間後、電話が復旧し、パソコンも使えるようになった。メールのやりとりが可能となった。これで事務局機能が復旧しはじめる。

この頃には、釜石SWのラグビー部員は自主的に街のボランティア活動を買って出るようになった。養老院や病院の車いすのお年寄りを運んだり、救援物資の集配を手伝ったりした。

ただ3日に1日はボランティア活動を強制的に休ませるようにした。

増田は説明する。

「根詰めてやると、自分の生活もできなくなる。疲れ果てていると、思わぬけがをすることになる。まずいいコンディションがあって、人助けができるのだと思うのです」