“主戦派”すら戦闘に限界を感じていた

かつて、複数のハマス幹部や指導者のヤシン師の殺害を決断したアリエル・シャロン首相も、同じように最後は戦いに限界を感じ、路線を変えようとした政治家でした。

シャロンは有能かつ冷酷な軍人として知られ、大勢のパレスチナ人を虐殺した責任者としても強く批判されています。また、政治家となってからは占領地への入植を後押しし、自らエルサレムの聖地を訪問してパレスチナ人を挑発するような強硬派でした。

それでも、自らの聖地訪問がさらなる混乱と暴力の連鎖を引き起こし、兵士たちが憎しみの泥沼で戦い続けるのをイヤというほど見続けた結果、2004年に強硬姿勢を転換します。ヨルダン川西岸にある一部の入植地から入植者と軍を一方的に撤退させる計画を発表したのです。2005年にはガザ地区の入植地を解体し、軍の部隊を撤退させています。違法な入植を推進してきた人物がその方針を変えた瞬間でした。

強硬派のシャロンですら、入植地は暴力の根源でありイスラエルにとってマイナスでしかないと最終的に理解したのです。しかし、シャロンはその直後の2006年に脳卒中で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。

それ以上の混乱と憎悪を作り出している

ユダヤ人社会活動家のダニエル・ソカッチは著書『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(鬼澤忍訳、NHK出版)の中で、シャロンが生きていたら、その後の歴史は変わっていたかもしれないと指摘しています。私もその可能性はあったと思います。強硬派のリーダーが決断すれば、国内の強硬派は納得する可能性が高かったからです。和平は主戦派が主導したほうが前に進むというパラドックスの一例となったかもしれません。

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ただ実際は、中東和平を推進するには彼の寿命が足りなかったようです。何より決断が遅すぎました。十分な結果が出なかった以上、政治家としてのシャロンは混乱と憎悪を増幅させた罪の方が遥かに大きかったと言えるでしょう。そして、このシャロンの政治生命を賭けた妥協に最後まで反対し続けたのが今のネタニヤフ首相でした。

2023年10月の攻撃は、和平に向けた穏健な考え方を完全に吹き飛ばしました。若い世代も、結局は過去の世代と同じような殺戮を経験しました。そして先人たちがそうしてきたように、新たな殺戮を始めました。いまやネタニヤフ首相は、かつてのシャロンを超える混乱と憎悪を作り出しているとも言えるでしょう。

10月のハマスの攻撃で二国家共存という意見を主張する人々は、イスラエルでは非常に弱い立場に立たされています。ハマスやヒズボラ、そしてイランを叩き潰せと言い続けていた強硬派が力を得て、再び怒りと対立、そして多くの血が流れるサイクルに戻ってしまったのです。